第15話

「じゃあ、後期から復学の意向ということですね。必要な書類については後で渡すか……電子媒体の方が良ければメールで送ります」

「はい、その方向でお願いします」

 念を押すように事務の女性に問われ、ぼくは深くうなずいた。

 面談室を出ると彼女は手を振ってそのまま教務課へ戻っていく。すでに復学の意思については指導教官とも相談を終えていた。

 大学を辞めようと本気で思ったことはなかったが、復学の時期についてはずいぶん悩んでいた。友人たちを避けたい気持ちはまだ強い。来年春まで待って修士の同期の多くが卒業してしまうのを待った方が気が楽なのか、それとも見知らぬ下級生たちと義足で付き合っていくことはもっと難しいだろうか。

 それでも半ば無理やりのように自分を鼓舞して、大学に復学の意思を伝えたのは、間違いなく宇田の影響なのだと思う。

 出会いは偶然。それからまるで事故のようなきっかけで体に触れるようになった。自分が同性に触れることを想像したことはなかったし、まさかそこに感情が伴うだなんて。

 でも、ぼくは確かに宇田に恋愛感情を抱いている。彼との約束を楽しみに日々を過ごし、顔を見れば抱き寄せたくなる。宮脇とのちょっとした会話にすら嫉妬を抑えられない。

 宇田はいつも同じように優しく穏やかで、ぼくが脚のことを気に病んで引きこもっていても見下すことはない。でも、ほとんど休みなしに働く彼の姿を見ていると、通院以外のほとんどの時間を家で無為に過ごす自分を恥ずかしく感じるようになってきた。

 だから、無理やりにでも自分を前に向かせたい。大学に戻るというのはそのための第一歩のつもりだった。

 まだ研究室に顔を出す気にはなれないが、前に大学に来たときとは違って構内をゆっくり歩く心の余裕は生まれている。歩きにくい場所やつまずきやすい場所はないか、そんなことを考えながら久しぶりにゆったりとした気分で、懐かしい大学の景色を楽しんだ。

 ぼくは次に病院に行ったときに、リハビリの終了を申し出た。

「そろそろいいかなって。この状態での体の動かし方にもすっかり慣れましたし、近々大学にも戻る予定なので」

 定期的なリハビリの終了については以前からたびたび話題にはのぼっていたことだ。宮脇もきっと唐突な申し出とは感じないことだろう。

 もちろんぼくの中には以来、この理学療法士に対して複雑な気持ちがわだかまっている。宇田は宮脇の話をさっさと打ち切ってしまったし、宮脇も宇田の話をしない。どうでもいいことなので忘れているのか、わざと触れないようにしているのか、確かめて墓穴を掘るのも怖かった。

 リハビリを終えたいと言われた宮脇はしばらくリハビリ記録や、医師からの申し送りのメモをじっと眺めていた。

「確かに、最近は調子も安定しているようですね」

「はい、だから……」

 これで終了です。もうあなたとぼくは二度と会わない。そうすれば宇田と宮脇のやりとりを思い出して不愉快になることもないだろう。そう心の中で続けるが、カルテを閉じた宮脇はなぜか引き留めにかかった。

「でも、大丈夫ですか? これから一番暑い時期だし、リハビリやめるなら自分で運動とか体操とかちゃんとやらなきゃいけませんよ。家にこもってるとせっかく鍛えたのが台なしに」

「わかってます。大丈夫ですよ」

 おまえには自己管理は無理だと言われたような気がして、思わずむきになった。確かにこの体をさらしてジムで運動するような勇気はない。パーソナルトレーナーをつける余裕もない。暑くなるこれからの時期の運動が辛いのはもちろんだが、時間を選べばウォーキングはできるし、部屋でできるストレッチだって知っている。

 宮脇の言葉を無視してぼくは帰り支度にかかった。

「じゃあ、長らくお世話になりました。宮脇さんのおかげですっかり日常生活には困らなくなりました。感謝してます」

 そう言って最後に右手を差し出した。宇田との一件のおかげで最後にケチはついたが、宮脇のリハビリ自体には感謝しているのだ。

 宮脇も右手を差し出し、ぐっとぼくの手を握る。そして――その手を離さないままに言った。

「土岐津さん、もしかして俺と会うのが嫌でリハビリをやめるんですか?」

 普段よりも低い声。顔は笑っていない。

「え?」

「ほら、このあいだ真輔と土岐津さんが待ち合わせているとこに出くわして、あのときから様子がおかしい。何か俺、土岐津さんの気分を損ねるようなことをしましたか」

 ぼくが気にしているのと同じくらい、どうやら宮脇もあの日のことを気にしていたらしい。

 ――だとしたら、なぜ?

 運動を終えて落ち着いていたはずの脈拍が再び早くなる。その一方で、自分が動揺していることを悟られたくなくてぼくは必死に笑顔を取り繕った。

「いや、すごい偶然だなって思っただけですよ。変といえば宮脇さんだってずいぶん驚いた様子で……でも仕方ないですよね。もう何年も会っていないって宇田くん言ってましたし」

 思わず牽制するような口ぶりになって、自意識過剰すぎただろうかと後悔が頭をよぎる。宮脇だって宇田だって、一度だって彼らが特別な関係だったことをにおわせたことはない。ただ、宇田に惚れているぼくが一方的に嫉妬を募らせているだけ。

 だが、本当にそうなのだろうか。宮脇と宇田がただの昔馴染みのご近所さんに過ぎないのならば、なぜこの男は深刻な顔でぼくの顔をじっと見つめているのだろう。

「土岐津さん、真輔とはよく会うんですか?」

「ええ、週に二、三回」

 三回も会うことはないので、これは多分に見栄だ。

「どういう話をするんですか?」

「どういうって、別に普通の雑談ですよ」

「……脚の話は」

 次々質問をたたみかけながら、宮脇の手の力がどんどん強くなっていく。気味が悪くてぼくは彼の手を振りほどくと後ずさった。

「なんでそんなことを宮脇さんに話さなきゃいけないんですか」

 宮脇はぼくの脚を見ていた。リハビリを終えてロングボトムに着替えているが、彼の目はじっと布の下にある僕の切断された脚を見つめていた。その視線は担当患者を見るリハビリ担当者のものではない。

「つまり、話をするんだな。真輔は土岐津さんの脚のこと何て言ってるんだ」

「どうしたんですか、さっきから変なことばかり聞いて」

 宇田は確かにぼくの脚に触れるし、ぼくの脚の話をしたがる。でもそれはぼくたちだけの特別で親密な時間だ。彼がこの、切断された醜い脚を撫でて「きれいだ」と言ってくれたことを、決して宮脇などに教えてやるものか。

 宇田が宮脇をどう思っているのかは知らないが、少なくとも宮脇は宇田に対して何らかの特別な感情を抱いているのではないか。ぼくは警戒心を最大に彼をにらんだ。

「どうしたんですか、宮脇さん、あなたおかしいです。宇田くんは、義足になって後ろ向きになっているぼくに親身になってくれる大切な友人です。詮索されるようなことは何もないですから」

 感情が昂って、余計なことを言っていることはわかっている。「詮索されることがない」というのはつまり「後ろめたいことがある」と言っているも同然だ。

 ぼくはバックパックを肩にかけると、そのまま宮脇の横をすり抜けようとした。これ以上不毛な会話を続けたくない。しかし「じゃあ」といって彼に背を向けたところでぐっと肩をつかまれた。もしも義足の扱いに慣れていない頃だったら床に倒れてしまったかもしれない、そのくらい強い力だった。

「何するんですか!」

 思わず大きな声を上げて振り返ると、宮脇がぼくを見た。

「土岐津さん、ずっと言うべきかどうか悩んでいたんだが……これは真輔の幼なじみとしての心配であり、あなたのリハビリ担当者としての忠告でもあります。――真輔とはあまり親しくしないほうがいい」

 正面から、ぼくたちは睨み合う。それからぼくは宮脇の手を払いのけ、言った。

「お断りです」

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