それ以上視線を合わせることも言葉を交わすこともせずに、ぼくは慌ただしく部屋を出た。もしも義足でなければ、そのまま走って逃げ出していたかもしれない。
宮脇が何を考え、意図しているのかはわからないが、そんなもの聞く価値はない。「心配」だとか「忠告」だとかもっともらしい言葉を使ったところで、結局のところ彼が一番言いたいのは、宇田に近くなというただそれだけ。牽制以外のどんな目的があるだろうか。
苛立ち、そして怒り――。
事故以来、こんなふうに他人に怒りを覚えたことがあっただろうか。もちろん脚を駄目にしたトラックの運転手のことは憎んだ。けれど、その運転手が事故を起こした理由は不注意や居眠りといったものではなく、ほとんど前兆のない心筋梗塞だった。事故を起こした後で手術を受け一命は取り留めたものの、彼もまた深刻な合併症に悩まされているのだと聞いて感情のやり場を失った。
もやもやとした気持ちでずっと、運命を恨んで、じくじくと痛み続ける幻肢を恨んで、気の毒そうな目で僕を見ているように思える周囲の人々を恨むことで激しい感情の爆発を抑えてきた。しかし、さっきの宮脇の言葉は少なくともぼくにとっては初めてはっきりと向けられた悪意で、一年近くくすぶり続けた怒りを炸裂させるには十分すぎる刺激だった。
宮脇はきっと、ぼくが宇田に対して抱いている特別な執着に気づいている。その上であんなことを言ったのは、彼もまた宇田にただならぬ感情を持っているからなのか、それとも同性から目を付けられている「幼なじみ」を守ろうというお節介なのか。
だが彼の動機がなんであろうとぼくには関係のないことだ。確かなのはただ、宮脇がぼくと宇田の関係を引き裂こうと画策したという事実。
怒りを抑えられないまま会計を終えた。
「土岐津さん、ええと次回のリハビリの予約は……」
「リハビリは終了したので、もう予約はありません!」
何の罪もない窓口の事務員にまで喧嘩腰に言い放って、ぼくは病院を後にした。
駅まで歩いて、電車に乗っているうちに少しは気が落ち着くかと思ったが怒りも苛立ちも大きくなるばかりだった。さらには不安まで湧き上がってくる。
患者であるぼくに対してあんな失礼なことを切り出すくらいだから、宮脇は宇田に対しても何らかのアプローチをしているのではないか。だとすれば内容はもちろんぼくと距離を置くようにといった内容で――もしも宇田がそれを真に受けてしまったら?
ふとした思いつきに居ても立ってもいられず、自宅最寄りの駅で降車すると同時にスマートフォンを取り出した。アドレス帳を開くまでもない。なにしろ、ここのところぼくの発信履歴は宇田の名前で埋まっているのだから。
数度の呼び出し音の後に、留守番電話が応答する。宇田が昼間働いているコールセンターでは、顧客情報の漏洩を防ぐために電子機器はすべてロッカーに置いておく必要があると聞いたことがある。きっとまだ仕事中なのだろう。
それでも気がおさまらないからすぐにメッセンジャーを開いたが、何を書けば良いのかわからない。
――仕事が終わったらすぐに連絡して欲しい。
それがどれほど一方的でわがままな願いであるか、落ち着いて考える余裕もなしに送信ボタンをタップした。
宇田と連絡がつかない限り何も手につかない。家に帰る気にもなれずに駅前のハンバーガーショップに入った。そういえば昼を食べ損ねたことを気づくが驚くほど食欲はなくて、コーラだけを頼んだ。
カウンターの向こうの店員は、流れ作業で会計を終えると後ろを向いてドリンクサーバーからMサイズの紙コップにコーラを注ぐ。ハンバーガーショップに入ったのは人生で何十回、もしかしたら百回以上。そして、マニュアルどおりに接客するよう訓練された店員の振る舞いは、事故に遭う前も今も変わらない。腰の高さのカウンター越しだから彼女はぼくの義足に気づいてはいないだろうし、きっと気づいたところで何ら特別な反応は見せないだろう。いまのぼくはそのことを知っている。
でも、数ヶ月前はこうして店で一杯のコーラを買うことすらできなかった。母親なしではどこにも行けない内気な子どものように、横目で看板を見やってはそそくさと通り過ぎていた。
宇田と会うようになって、一緒に外出するようになって、少しずつ入ることのできる店ややれることを増やしてきた。ぼくにとって彼はまるで、不自由な体に生まれ変わったぼくを育ててくれる特別な人間なのだ。
宮脇のような何不自由なく健康な男に、ぼくの何がわかるものか。できることならば一度脚を失った気持ちを味わってみたいという、いつかの彼の言葉すら振り返れば空虚だ。そして、決してあんな男の適当な言葉に宇田を奪われるものかと強く思う。
そんなに時間はかからなかった。氷だらけのコーラを飲み終えるよりも前に宇田からの着信があった。
「もしもし!」
「……土岐津くん?」
飛びつくように通話ボタンに触れたぼくの耳に、聞き慣れた宇田の声が飛び込んでくる。少し訝しむような、心配そうな声色だった。
「どうしたの、すぐに連絡って。何か困ったことでも? どこかで怪我したとか」
どうやら宇田は、嫉妬と独占欲に突き動かされただけのぼくからのメッセージを緊急事態と捉えたようだった。出会いからして、雨の中で義足が外れて座り込んでいたところを助けられたのだ。彼が同じような事態を想像するのも無理ないのかもしれない。
「違う、そういうんじゃない。そういうんじゃないけど!」
スマートフォンに噛み付くようにそう言って、周囲の客の視線がこちらを向いたことに気づいて慌てて声のボリュームを落とす。
「宇田くん、あれから宮脇さんに会った?」
「宮脇……笙ちゃんとなら、会ってないよ」
「直接顔を合わせていなくても、電話とか、メールとか」
「ないよ。おれ笙ちゃんの電話番号知らないし」
前のめりの質問を宇田は淡々と否定した。宇田が本当のことを言っているならば、それでいい。本当にただのご近所さんで、いまは個人的な連絡先さえ知らないならば、それでいい。でも、それならば宮脇があんな思わせぶりなことを言う理由がないのだ。
「そう……なんだ」
宮脇が口にした言葉を明かした上で、宇田にその背景を聞くべきだとわかっている。でもいざ話を確信に進めようとしたところでぼくは怖気付いた。やぶへびになったらどうしよう。下手にこちらから話題に出したせいで、宇田が宮脇の忠告についてまともに考えてしまうようではまずい。
「土岐津くん、どうしたの? ちょっといつもと様子が違うみたいだけど、本当に具合が悪いんじゃないだろうね」
大声でまくしたてたかと思えば、急に意気消沈する。宇田がぼくの態度を怪しむのは当然だった。そして不安と弱気に駆られたぼくは――ただ、宇田に会いたかった。
顔を見て、直接声を聞いて、その肌に触れたかった。向かい合って表情を確かめれば本音がわかるかもしれない。少なくともこんなところで電話越しにもやもやしているよりはずっと。
「宇田くん、会いたい」
ひどいわがままだということはわかっている。今日は定例の水曜でも日曜でもない。宇田はきっと、これからすぐにアルバイト先に向かって夜半近くまで働き続けるのだ。
それでもぼくは、困ったように言葉に詰まっている宇田に、畳み掛けるように続ける。
「お願いだ、どうしても会いたい。今日、これからすぐに会いたい」
困り果てたような沈黙は何分、いや実際はほんの数秒だったのかもしれない。やがて宇田の小さな吐息が聞こえ、短い返事が続く。
「わかった。土岐津くんの家に行けばいい?」