電話を切って、まずはほっとした。
宇田はぼくを避けなかったし、こんな突然のわがままを受け入れてくれた。それだけで、たとえ宮脇が良からぬ忠告をしていたのだとしても宇田は真に受けていないと信じる助けにはなった。
溶けた氷で水っぽくなったコーラを一気に飲み干して店を出てから、宇田の来訪に備えて何か買って帰ろうかと考える。切羽詰まった声で「いますぐ」などと言ったから、きっと彼は急いでやってくる。いつもの水曜日みたいに弁当を買う暇はないだろう。
すぐ隣にあるのは、あのコンビニエンスストア。連絡先も聞かないうちに帰ってしまった宇田をぼくが見つけた店だ。彼との出会いとこの店での再会、二度繰り返せばそれはもはや偶然とは呼べない。宇田との間に改めて運命のような絆を感じながら店に入った。
会計のとき、レジを打つ女性に見覚えがあるような気がした。制服の胸につけたプレートに「巻」と書いてあるのに気づき、その名を宇田の口から聞いたことがあったと思い出した。彼女がぼくを、人気のテレビ俳優に似ていると言い出したのが宇田を部屋に誘うきっかけになったのだ。そう思うと急に彼女に対して親近感のような感謝のような念が湧いた。
巻もぼくを認識したのだろう、言葉こそ交わさないものの、品物を入れたビニール袋を手渡しながら小さく会釈したように見えた。
家について、義足を外すこともせずそわそわとしていると、やがてインターフォンが鳴った。ぼくの予想よりも十分近くも早い到着だった。すぐに玄関に向かい内鍵を開ける。
そこには宇田がいた。
彼が急いでここまで来たであろうことは、到着時間だけでなくその姿からもわかる。いつも涼やかな顔をしている――もちろん体に触れて高まっているときは除外してだが――宇田の顔はやや紅潮して、跳ねた前髪が汗で額に張り付いていた。
「……っ、はぁ」
何か言おうとするが、息を切らしているので言葉にならない。ぼくのことを心配して駅からここまで走ってきてくれたのだと思うと喜びと愛おしさが湧き上がって、まだドアが閉まりきっていないにもかかわらず、たまらずその体を抱き寄せた。
彼の着ているTシャツもしっとりと湿っていて、薄い布越しに骨張った背中の熱さを生々しく感じる。髪に鼻先をすりつけて、汗の匂いすら逃したくなかった。
「……土岐津くん……?」
ようやく息を落ち着かせ、宇田は戸惑ったようにぼくを呼ぶ。返事の代わりに抱きしめる腕に力を込めると、彼はおずおずと申し訳程度にぼくの体を抱き返した。
「あの、すごく取り乱してるみたいだったけど、とりあえず元気そうでよかった」
腕の中で宇田はもじもじと身悶えしながら背後を気にした。ドアは勝手に閉じてしまった。鍵は――いまはそんなこと、どうだっていい。
「宇田くん、宇田くん」
早口で繰り返しその名を呼ぶ。その勢いのままに感情と言葉が口からあふれ出した。
「君はぼくの脚が片方であろうが気にせずに寄り添ってくれる唯一の人だ。宇田くんと出会えたおかげで、やっと少しだけ今の自分を受け入れることができた」
「そんな……おれは何も。それに、きっと他の人だって土岐津くんの脚のことはそんなに……」
「君だけだ!」
思わず強い調子で言うと同時に、ますます宇田を抱きしめる力を強くする。ただ謙遜しているのならいいが、彼がぼくの気持ちを十分に理解してくれていないのだとすれば、あまりにもどかしい。
ぼくにとってどれほど宇田が特別な人間であるか、どれだけ彼に救われその存在を必要としているか。わかって、そして受け入れて欲しい。その一心で、いつしか声には嗚咽すら混じった。
「こんなことを言ったら重いって思われるかもしれないってわかってる。でも、ぼくには宇田くんが必要なんだ。少しずつでも前を向くから。君にも一緒にいて楽しいと思ってもらえるように、ネガティブな話もこれっきりにする。大学にも秋から戻ることにしたんだ。だから……ぼくを見捨てないでくれ」
一気にまくし立てたところで、急に少しだけ冷静な自分が戻ってくる。
何が「宇田くんが必要なんだ」だ。出会ったその瞬間から宇田に助けられ、もたれかかって、彼の善意を絞り取るだけだった。ぼくは宇田に何ができた? そしてこれから先何ができる?
こんな関係、宇田には何のメリットもないことなんて最初からわかっていたのに――。
いい歳をした男にすがりつかれて泣かれて、きっと宇田は呆れているだろう。宮脇の呪いのような言葉を振り払うために宇田を呼んだのに、こんな有り様では逆効果だ。興奮も昂揚も急速にしぼんで、同時に体からも力が抜けていった。
さっきまで締め付けるほどの力強さで抱きしめていたのが嘘みたいにぼくの腕がゆるみ、宇田の体を自由にする。まったく、何をやっているのだろう。
情けなさに涙がこぼれたところで、髪にそっと何かが触れてくる感覚。
「土岐津くんは大げさだよ。おれは君が思ってるような特別なこと、何もしてないのに」
泣く子をなだめるように宇田の手が何度もぼくの髪を撫でた。
彼の手のひらは、ぼくのものよりも硬くて表面がすべすべしている。その手に脚や、もっと敏感な場所を触れられるといつもすぐにたまらない気持ちになる。
ぼくはふにゃふにゃとした柔らかい手よりも、宇田みたいな手の方がずっと素敵だと思うのだが、そのことを告げるといつも困ったような苦笑いで返される。荷物の仕分けのアルバイトで重い荷物を扱うから手のひらが硬くなったと信じていて、そのことを恥ずかしく思っているらしい。
大好きな宇田の手がいまはぼくの髪を撫でている。いつもの優しくはあるけれど込められた感情の知れない不思議な触れ方とは違う。いまは確かに宇田はぼくを慰めようとしているのだ。
彼の触れ方や言葉はあまりに優しい。その一方で「特別なことはなにもしていない」という言い分はあまりに寂しい。甘ったるい喜びと引き裂かれるような不安のはざまで、もうこれ以上気持ちに蓋をすることなどできなかった。
「君が好きだ」
色気もくそもない。蒸し暑い玄関先で顔をぐしゃぐしゃにして告げたのは、多分ぼくの人生でもっとも惨めで悲惨で――切実な愛の告白だった。
「宇田くんが好きなんだ。もう君がいない日々なんて想像できない。こんなこと言って困らせるだけだってわかってる。だからたまに会ってくれるだけで満足しようと思ってたんだ」
だってぼくには片脚がない。
しかもぼくたちは同性だ。
ただ宇田は優しいだけで、体に触れ合うのは彼だって快楽に飢えているから。そうやって自分を納得させようとして、どうしてもできなかった。
ぼくは再び手を伸ばして、今度は痛みを感じない程度の力で宇田の両肩をつかんだ。
「どうして宇田くんは、そんなに簡単にぼくに触れるんだ。そして、ぼくに触れられることを拒まないんだ。だから誤解したくなる」
「誤解って?」
聞き返すのは逃げようとしているからなのか、それとももっと確かな言葉を欲しがっているのか。いずれにせよぼくはこれ以上、曖昧さに逃げるつもりはなかった。
「違うなら違うと言ってくれ。違わないなら、ぼくの気持ちを受け入れてくれ」
「……うん」
返事までは少し間があった。宇田は顔を伏せていたから、その間がためらいとはにかみ、どちらのせいなかはわからなかった。だからぼくはよりはっきりとした答えを求める。
「それはつまり、宇田くんもぼくのことを好きでいてくれてるって思っていいのか」
宇田が顔を上げた。
二度目の答えに、もう迷いはない。
「うん、いいよ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに唇を押しつける。これまでとは違う、愛情を確かめ合うキス。そう思うと矢も盾もたまらず戸惑う唇をこじあけ誘い出した舌を吸った。