第18話

 角度を変えながら唇を噛み舌を絡ませ、宇田の歯並びをひとつひとつ確かめていく。これまでのようなふわふわと雰囲気に任せた行為ではなく、はっきりとした了解と根拠になる感情があるのだと思うと気持ちはただ高まった。

 右手で後ろ頭をかき抱き左腕で腰を引き寄せ腰を密着させた。狭い玄関スペースにはふたり分の荒い呼吸と、粘膜や唾液の絡まる濡れた音だけが響き、その音にさらなる興奮を駆り立てられる。

「……土岐津くん……っ、ここじゃ……」

 息継ぎの合間に聞こえたささやきを無視しようとさらに深く口腔をむさぼると、のけぞった体重を支えきれなくなったのか、宇田の膝が急にがくんと折れた。

「っ、うわ」

 ぼくの脚は急な体勢の変化への踏ん張りがきかない。崩れ落ちる宇田にのしかかるようにしてよろめき、そのままふたりして床に倒れると同時にごつんと鈍い音が響いた。

「宇田くん、どこかぶつけた?」

「ううん、大丈夫」

 頭でも打ったのではないかと心配して確かめると、宇田は首を左右に振った。どうやらあの音は、床板と義足がぶつかって生じたものらしい。

「……ごめん、焦って」

 さきほど宇田が制止するようなことを口にしたのは、こういう展開を心配したからだったのだ。興奮して周囲が見えなくなっていたの自分が恥ずかしい。

 もちろんいまもって冷静には程遠いが、狭い場所で立ったまま抱き合うのは、とりわけぼくのようなハンディキャップを背負った人間には無理がある。そのことを痛感して場所を変えるために起き上がろうとすると、ぼくの体の下から這い出た宇田が手を貸してくれた。湿った前髪。助け起こしてくれる手。雨の中出会った日のことを思い出して胸が熱くなった。

 後ろ手で内鍵をしめてから宇田はぼくに手を貸して、リビングへ向かう。ドアを開けるとひんやりとエアコンのきいた空気が心地よい。けれどその冷気も興奮を冷ますことはなかった。

 そのまま宇田をベッドに押し倒し、覆いかぶさってキスをしながら右手はシャツの上から体をまさぐる。何をどうすれば良いのか迷いはあるが、これまでと違うことをしたい衝動に突き動かされる。

 宇田との過去の接触は、キスを除けば多分に即物的なものだった。基本的に互いの性器に指を絡ませ射精を促すだけ――せいぜい何度か興奮にかられて勃起同士を擦り合わせたくらいだ。彼の体の他の部分に興味がないわけではなかったけれど、曖昧な関係の中でセックスをなぞる行為に進むには躊躇があった。

 でも、もう迷う必要はない。

 少しのあいだ布地越しに胸や腹をさすり、すぐにそれだけでは足りなくなってシャツの裾をまくり上げた。柔らかくもない体に膨らみもない胸を前に興奮する日が来るなんて一年前の自分には信じられないことだった。でも、これが宇田の体であるというだけでぼくにとっては他の何にも替えがたい欲望の対象となる。

 宇田はどちらかといえば小柄だが、体は働き者らしく引き締まって薄くしなやかな筋肉におおわれている。仰向けに横たわって、恥ずかしいのか目のあたりを手の甲で隠している彼の腹に口づけると、慣れない刺激に力が入ったのかぐっと腹筋が硬くなるのがわかった。

「宇田くん、緊張してる。力抜いていいよ」

「うん……」

 平然とぼくの勃起に触れてきてキスをしても動じなかった宇田だが、さすがにこの状況には緊張しているのだろうか。怖がらせたいわけではないのだが、これまで目にしたことのない彼の初々しい姿は正直悪くない。

 何をどうすればいいのかもわからないままに平べったい肌に唇を這わせていると、やがて舌先はごく小さな突起にたどり着く。

「んっ、あ」

 乳首で感じる男は少なくない――と耳学問では知っていたが、自分でも他人でも試したことはない。濡れた舌で芥子粒ほどの突起をぐっと押しつぶしただけで宇田の唇から押し殺すような喘ぎ声が漏れたことに驚きとともに支配欲のようなものが湧き上がる。

 そのまま小さな乳輪ごと舐めたり吸ったりしながら小さな乳首を舌先で刺激すると、面白いように宇田の呼吸が荒くなった。その反応に気をよくして反対側の乳首をきゅっと指先でつねり上げた。

「……ああっ、ま、待って」

「痛い?」

「痛くはないけど、そこ、変」

 刺激を与えると薄褐色だった乳首はやがて充血したように赤くなり、小さな乳頭も健気にぷくりと膨れてますますぼくの指や舌を楽しませた。

「痛くないなら多分、大丈夫。だって気持ち良さそうに赤くなってるし、ほら、こっちも」

 視線を動かすと、仰向けに寝転んだ宇田の股間が形を変えはじめているのが布越しにわかる。本当ならば膝頭でいたずらしてやりたいところだが、彼の上に四つん這いになった状態で右膝を上げれば、左脚のバランスを崩しそうで不安だった。

「ごめん、ちょっと待って」

 ぼくはそう言って一度宇田の体から離れると、もどかしく着ているものを取り去ろうとした。まずTシャツを脱ぎ捨てて、次にベルトを外してボトムを下ろす。焦っているせいで左脚部分を脱ぐ途中で義足の装着部分に引っ掛かってしまい、思わず舌打ちをしてしまった。

「っ、くそ」

 半ば無理やりのように引き摺り下ろしたボトムを床に脱ぎ捨てたところで宇田が体を起こした。物珍しい――はずはない。もう宇田はぼくの義足も、それを外した姿も両手の指の数以上見てきたのだ。

 しかし彼は伸ばした手をぼくの手の甲に重ねてから、熱っぽい表情でぼくを見つめる。

「土岐津くん。それ外すの手伝いたいって言ったら迷惑?」

「そんなことは……ないけど」

 迷惑ではないが、正直面食らった。とはいえこれもまた宇田がぼくに親愛の情を示そうとしてくれているのだとすれば、断る理由もなかった。

「宇田くん何度も見てるから知ってると思うけど、別に手伝うっていうほどたいしたことじゃないよ」

 ぼくの使っている下腿義足は特にシンプルな構造のもので、ベルトもなくただシリコンライナーを着けた脚の断端に、筒状のソケットをすっぽりとはめ込んでいるだけだ。とはいえ、了解の言葉を聞いた宇田がどことなく嬉しそうに身を乗り出してくるから、ぼくは彼に左脚を差し出す。

「引っ張って、抜くだけ。その筒みたいなところに手をかけて」

「うん」

 ソケットに触れて、宇田はそこで一度手を止める。それからまずは不格好な義足の根本から足先部分までを見渡して、足指――もちろんそれは樹脂で作られた偽物の指で、触り心地は人間の皮膚とはまったく異なっている――に触れた。

「……っ」

 親指の先を摘まれた瞬間、くすぐったいような感覚にぼくは身をよじった。驚いたのか、宇田は弾かれたように手を離した。

「ごめんっ。触っちゃまずかった?」

 まるでびっくり箱を開けてしまったかのように目を丸くする彼の姿が面白くて、義足に触れられている緊張感も忘れて思わず吹き出してしまった。

「何がおかしいんだよ?」

「いや、宇田くんがばね仕掛けみたいに飛び退いたから」

「だって、そっちこそ、この指のところ触ったらびくっとしたじゃないか」

 笑われて体裁が悪いのか、宇田は顔を赤くしてこちらを軽くにらんだ。言われてみればきっかけを作ったのはぼくだ。感覚などあるはずもない義足の指先を触って変な声を出されて、彼が驚くのも仕方ない。

「なんか、一瞬くすぐったいかなって気がしたんだよ。気にしないで、多分気のせいっていうか、幻肢の一種だから」

 予告なしに現れたり消えたりする「失われた足」が、宇田に触れられたショックで出てきてしまったのだろう。ぼくにとっては珍しくもない幻肢だが、何度言葉で説明したところでその感覚が他人に伝わらないのは当然のことだ。

「義足つけてるときは、比較的感じないんだけど。それでもたまにはね」

「義足がないときは?」

「たまに、すっげえうざい。この前はベッドで寝てるときにふくらはぎが痒くなって。でもいくら痒くても、掻くふくらはぎがないんだから、地獄だよ」

 幻であるがゆえに、痒くても痛んでも対処のしようがない。あの晩は正体のない痒みに何時間悩まされ続けただろうか。記憶をたぐると不快感まで蘇り思わず顔をしかめた。

「それは、たいへんだね」

 つられたように表情を曇らせ、宇田がうつむいたのを見てまずいと思った。

「ごめん、別に悩んでるとかそういう話じゃなくて」

 ネガティブな話はしないと約束したばかりなのに、もしかしたら愚痴のように聞こえただろうか。焦って言い訳の言葉を探すぼくに、ぱっと顔を上げた宇田はもう笑っていた。そのまま樹脂製の左足の――今度は指先ではなく足の裏に手を伸ばし、爪の先でくすぐる仕草をしてみせる。

「これは? くすぐったい?」

「やめろよ。全然感じないけど、そういうふうに言われるとくすぐったいような気がしてくる」

 悪戯から逃れようと、ぼくは勢いよくソケットから左脚を外すと、宇田に飛びかかって再びベッドに組み敷いた。