第20話

 薄暗く狭い部屋の空気はよどみ、独特のにおいが立ち込めている。

 大学の生物制御研究室に付属する飼育室。農薬や殺虫剤が研究のメインなので、実験動物といってもほとんどはいわゆる「害虫」と呼ばれるもの。哺乳類はいくつかラットのケージが置いてあるだけだ。

 はじめて入ったときにはここの空気が不快で、吐き気を催したことをはっきりと覚えている。しかし学部四年から修士一年の夏までほとんど毎日欠かさず作業を続けた結果、ぼくはすっかりこの部屋に慣れてしまった。生き物の餌や糞尿が入り混じったにおいや、狭いケージの中を飛び回る虫たちの羽音すら懐かしく感じる。

 ケージの床に溜まったごみや昆虫の死骸を大きなごみ袋に流し込んでいると、急に飼育室の扉が開いた。

「よお、土岐津、ここにいたんだ」

 飛び込んできたのはぼくの同期本村もとむら。つい最近、大手の製薬会社の研究開発部門に就職を決めて、これからはいよいよ修論の準備に本腰を入れるところなのだという。

「うわ、くっせえ。窓全開にしろよ。ていうか、おまえ飼育当番やってんの? なんで?」

 顔をしかめて、本村は大股で窓に駆け寄った。

 研究用の動物の遺伝系統は厳密に管理されている。外部への流出はもちろん、扱うのがどこにでもいる害虫であるだけに、外から入って来た個体が飼育個体と交配してしまうのが不安だ。神経質なぼくは飼育室の窓をほとんど開けないよう気をつけているが、雑な性格の本村は「網戸がしっかり閉まっていれば大丈夫」と言い張る。

 弱いとはいえ飼育室には空調が入っている。窓を大きく開けると新鮮だが蒸し暑い真夏の空気が流れ込んできた。

「飼育当番は、週に一回だけやらせてもらうことにしたんだ。ずっと研究室離れてたから、夏休みのあいだはリハビリ気分で」

「まだ休学してるんだろ? よくこんな雑用やろうって気になるな。どうせ復学したら長期休暇なんてとれないんだから、今のうちに休んどけばいいのに」

 休暇の長い大学生とはいえ、生き物を抱えて、しかも日々実験に追われる研究室所属学生には長期休暇取得は難しい。そういえば去年の夏はぼくも、夏休みだというのに毎日大学に顔を出さなければならない日々にうんざりしていた。

「ぼくはもう十分休んだからいいんだ。学費払ってないからまだ実験ってわけにはいかないけど、復学前に少しずつでも生活習慣と勘を取り戻そうと思ってさ」

 すると、本村はぐいとこちらに身を乗り出した。

「そう、勘を取り戻す! それ大事だよな」

「うん?」

「自分の実験はできなくたって、実験の手技や勘を思い出す良い方法があるんだけど、興味ないか? っていうか土岐津、おまえ今日の午後、暇?」

 きらきらと期待に満ちたまなざしに、言葉の先は想像するまでもない。要するに本村は自身の実験を手伝わせる絶好の労働力を見つけた――というよりは、そのためにぼくを探して飼育室に来たのだろう。

 片脚を切断して十ヶ月ぶりに大学に姿を現した友人をさっそく使役しようとは現金なやつだと思う反面、これが本村なりの気づかいなのだろうとも感じる。

 入院中、彼は他の友人とともに何度か見舞いに来た。感じの悪い態度をとり、最終的には遠回しな言葉で「これ以上病院に来て欲しくない」と言ったのはぼくだった。事故以来初めて研究室の扉を叩いた日は正直、どんな顔でどんな態度を取れば良いのかわからなかった。だから、友人たちがぼくの過去のひどい態度を忘れたかのように接してくれることはありがたい。

 長いボトムを履いているぼくは一見して義足であるとはわからないが、大学構内を歩いていると、ときにはぎこちない歩き方に目を止めてくる人間はいる。だが、その程度の視線を受け流すくらいの図太さはいつの間にか身に付けてしまった。

 それどころか、周囲を見回して見れば、かつて健常だった頃には気づかなかったほど多くの人が不自由さを抱えて歩いていることに気づく。大学構内で車椅子を使う学生や杖を使って歩行する学生を見ることもある。きっとどこかには義肢を使っている人間もいるのだろうし、もしかしたらもっと目には見えない疾患や内臓障害を持っている人たちも、この景色に紛れて歩いているのかもしれない。

 いっときは、通院以外は一生家に引きこもって過ぎるのかもしれないとまで思い詰めていた。あの最悪の時期からはまだ半年も経たないのに、自分が平気な顔で大学の友人と笑い合っているのは、我ながら不思議ではある。そして、体の回復にまったく追いついていなかったぼくの心がここまで立ち直れるよう魔法をかけてくれたのは――間違いなく宇田真輔だった。

 本村の誘い自体は魅力的だが、残念ながら今日のところは彼を手伝うわけにはいかない。

「悪いけど、午後は星野さんの実験をみてあげる約束してるから」

「ええっ、まじで? くっそ先を越された」

 星野ほしの梨花りかは、今年の四月に生物制御研究室に配属された学部四年生だ。

 理系の中では比較的女子学生の比率が高いと言われる農学部だが、彼女たちに人気があるのは華やかな花卉かき果樹かじゅ系、または将来性があるとされるバイオ系。古式ゆかしき化学ばけがくの、しかもハエやらゴキブリやらを扱う農薬研究は圧倒的に男子学生が多い。そんな中に新入りの女の子とくれば、湧き立たないはずがない。

「その〈先を越された〉って、どっちの意味?」

 果たして、手伝い要員としてのぼくをとられたという意味なのか、逆に星野とふたりで作業する機会を奪われたという意味なのか。からかい半分に訊ねると本村は気まずそうに顔を赤くした。

「前者だよ! っていうか、そっちこそ復帰数日で梨花ちゃんと実験って、手が早すぎないか?」

 仕返しのように「手が早い」などと言われ思わず言葉に詰まる。しかし、本村が本心を見透かされたことに動揺していることと比べれば、こちらの理由はまったくの別物だ。

 ぼくは、今のいままで星野が自分にとってそういう対象になりうることにすら気づいていなかった。この数ヶ月、心の中は宇田でいっぱいだったし、つい少し前に正式に恋人と呼べる関係になって以来、彼への気持ちは深まるばかり。男だろうが女だろうが、他の人物が入りこむ隙間などどこにもない。

「誤解だよ、星野さんが実験に失敗してるところを偶然見かけて、アドバイスしただけだ」

 星野が実験台の前で肩を落としているのを見て声をかけたのは昨日のこと。おそらく試料の作成方法が下手なのだと思うが、数時間を費やした作業の結果はあまりに悲惨で見ていられなかった。他の学生も星野のことを気にかけてはいるのだろうが、全員が自身の研究に追われる中、どうしても後輩へのケアは手薄になる。

「でも、アドバイスだけじゃなくてマンツーマンで実験するんだろ?」

 もはや下心を隠す気もないのか、本村は食い下がった。ぼくは苦笑いするしかない。

「だったら自分の実験投げ出して、星野さんの手伝いするか? ぼくは代わってやっても構わないけど」

 星野から、もし時間があれば一度作業に立ち会って、どこが間違っているのか教えて欲しいと頼まれたとき思ったのは「これで堂々と実験機器に触れられる」ということだけだった。本村や他の研究室メンバーから下心を疑われるのは本意ではないし――宇田に対して申し訳がたたない。

「代われるもんなら代わりたいよ。でもこのままじゃ修論がやばいからなあ。そうだ、土岐津が俺の実験やって、俺が梨花ちゃんの指導やるってどう? ほら、今はその気がなくてもふたりで実験やってるうちに、いつの間にか恋が……ってあり得る話じゃん」

 さも名案のように切り出してくる本村の言葉は冗談だろうが、らんらんとした目の輝きには五パーセントくらいの本気が混ざっているようにも見える。ぼくは呆れ果てた。

「少なくともぼくにはないって。付き合ってる人いるし」

 ついそんなことを口にしたのは、これ以上星野のことでうるさく言われるのが嫌だったから。そして――名前や素性は告げられなくとも、誰かに宇田とのことを自慢したいという欲望も、ぼくの中には確かに存在しているのだった。