第21話

「え、彼女? いつの間に?」

 本村は目を丸くした。

 厳密には「彼」ではないが、わざわざ面倒な事情を明かすつもりはないので黙っておく。詳細を語るまでもなく、驚きと羨望を含んだ友人の眼差しに射抜かれるだけも自尊心は満たされた。

「とにかく、そういうことだから星野さんと実験するのに下心はゼロ。からかわれるとやりにくいから、変なことを言うのはやめてほしいんだよな」

 そう言ってぼくはごみ袋の口をぎゅっと結んだ。これで今日の飼育当番の仕事は終了。ちょうど時計は昼を回ったところだ。すぐに学食に行けば混んでいるだろうか、しかし星野との約束があるからあまりのんびりしてはいられない。

 手を洗って飼育室を出ようとするが、本村はどうやら話をそこで終える気はないらしく、嫉妬もあからさまに目の前に立ちはだかった。

「いや、待て。土岐津おまえ、ずっと入院とかリハビリでたいへんだったわけじゃん。なのに、そんな中でちゃっかり彼女作ってたわけ? こっちは就活で走り回る間を縫って実験の日々で、合コンすらご無沙汰なのに。そういうの抜け駆けっていうんじゃねえ?」 

「ちゃっかりとか抜け駆けとか人聞き悪いな。別に合コンに行ったわけでもナンパしたわけでもないよ」

「じゃあどこで出会うんだよ、病院か? 病院……もしやナースとか?」

 実際に長期の入院を経験すれば看護師に対して感謝こそあれ、下世話な想像などできなくなるに決まっているのだが、健康な人間というのはおそろしいものだ。「ナース」という部分だけ本村はひときわ声を低くする。

「違うって。病院関係ない人。まだ義足に慣れてなかったころに道端で立ち往生してたところを助けてもらったんだ」

 世話になった看護師たちの名誉のためにもきっぱりと妄想を否定したのだが、就活と修論に追い詰められて色恋への妄想をこじらせた本村は、さらに言葉尻をつかまえた。

「はあ? なんだよ、そのドラマみたいな展開!」

 まじでうらやましい、と続いた言葉には嘘偽りのない羨望が込められていた。その姿や言い方は真に迫りすぎていて、かえってコミカルに映る。不謹慎だと腹を立てるどころか思わず吹き出してしまった。

「だったら本村もトラックに突っ込まれて脚切ってみれば? ドラマみたいな出会いがあるかもしれないし」

「それはやだけどさー、でもうらやましいものはうらやましいんだよ」

「じゃあ、星野さん相手にがんばればいいじゃん」

「まあね。でも同じ研究室っていうのも万が一のとき面倒だしなあ」

 ぶつくさ続ける本村はそういえば、かつて内部恋愛の破局でサークルをやめたことがあった。学位のかかっている研究室は、サークルのように恋愛トラブルがあったから姿を消すということはできない。懸念はまっとうなものに思えた。

 事故後のぼくの落ち込みを知っているだけに、本村の過剰なまでに道化的な物言いは必ずしも本音ではないのだと思う。久しぶりに友人と軽口を投げ合うことには悪い気がしなかった。

 そのままの流れで本村並んで食堂へ行き、ようやく席についたところでちょうど噂の星野梨花が通りかかった。

「あ、本村さん、土岐津さん、一緒に食べていいですか」

「いいよ、もちろん大歓迎」

 人懐っこい彼女に声をかけられ、本村はいやらしく表情を緩めて隣の椅子に置いたかばんを避けた。

 美容やスタイルを気にする女子大生らしく、サラダや冷奴、きんぴらといった小鉢がバランスよく並んだトレイを手にした星野は椅子に腰掛けるとこちらに向かって愛想よく頭を下げた。

「土岐津さん、今日は実験よろしくお願いしますね」

「うん」

 確かに可愛らしいタイプではある。もしも宇田と出会っていなければ――そして脚のコンプレックスもなければ――ふたりきりの作業に少しくらいは胸が高鳴っていたかもしれない。だが、ぼくはそんな、明るく呑気で平凡な大学生の恋愛からはすでに遠い場所にいる。いまのぼくは片脚を失った男で、そんなぼくの隣にふさわしいのは宇田の他にいない。

 そんなぼくの思いなど知る由もない、ちらりと横目でこちらを見てから本村はわざとらしく切り出す。

「……で、話の続きだけど、その彼女とは上手くいってんの?」

 そう来たか。さっきは研究室内恋愛は避けたいようなことを言いながら、本村はまだ星野への下心を捨て切れていない。わざとぼくに恋人がいることをこういうかたちで伝えて、彼女の恋愛対象から排除させようという作戦なのだろう。

 星野は化粧で縁取られた大きな目をさらに見開いてぼくを見た。

「土岐津さん、彼女いるんですか?」

「ああ、うん。まあ」

 そんなふうに驚かれるのも心外ではある。好意的に受け取れば、彼女が少しはぼくに興味を持っていて恋人の存在にショックをうけたことになる。悪意を勘ぐれば、片脚のない男と付き合う物好きな人間もいるのだという驚き――。しかし、手にした箸を置いて、身を乗り出してキラキラした視線を向けてくる星野の姿からすれば、答えはそのどちらとも違うのかもしれない。

 要するに、女子大生の多くは自身のものか他人のものかにかかわらず、〈恋バナ〉が大好きなのだ。一切自分に関係のない話でも、恋愛の話とくれば興味津々に首を突っ込んでくる彼女たちに圧倒されたことは、一度や二度ではない。

「相手は学生ですか? それとも社会人? 付き合って長いんですか? デートってどこに行きます?」

 以前ならば、プライバシーに踏み込んでくるような話題はただうっとうしかったのに、星野の怒涛の質問に懐かしさすら感じてしまうので、ぼくがこういう当たり前の話題からも長らく遠ざかっていたからだ。

「働いてる人。正式に付き合いはじめたのは最近だよ。デートは普通に飯食ったりうちに来たり。はい、質問はおしまい。これでいいだろ」

 宇田との関係を自慢したい気持ちと、詳細は話せないという理性がせめぎあう中で、ぼくは無理やり話を打ち切ろうとした。しかし、やはりしつこいのは本村だ。勢いよくカツ丼をかきこんでから、大きく息を吐いた。

「いいなー、社会人のお姉さんか。付き合いはじめって、夜はもう、盛り上がってめくるめくって感じだろ」

 あんまりな言い様に声を荒げそうになるが、先に星野が反応する。

「ちょっと本村さん、すぐ下ネタに持ってくのやめてくださいよ!」

「いや、梨花ちゃん、俺は口先だけだから。こんなむっつり男と比べたら内面はピュアなの」

 男所帯にずっぽり頭まで浸かった本村が、気のある後輩女子の前でも変わらず下ネタキャラを貫いていることを、ぼくはようやく察した。一体それが正しい戦略なのかどうかはわからないが、少なくとも星野は幻滅した様子もなく軽口で応じていた。

 そして、意外と相性の良さそうなふたりは揃ってぼくの顔を見つめた。

「で、どうなの」

 完全に計算外だ。軽い気持ちで口にした「付き合っている人がいる」という話に、ここまでしつこく食いつかれるとは完全なる想定外だった。

「いや、だから、まだ付き合いはじめたばかりなんだって!」

 世の大学生がどうだかは知らないが、少なくともぼくは、同じ研究室の仲間に自分の性生活を明かす趣味など持ち合わせてはいない。

 しかし相手は存外にしつこい。星野と本村は顔を見合わせてひそひそとぼくの答えを吟味しさえする。

「ってことはもしかして、まだ……?」

「いや、そんなの中学生じゃないんだからさ。でもどうなの? 女子的にはすぐ手を出さない紳士の方が好感度アップ?」

「うーん、あんまりがっついてこられるのもドン引きだけど、付き合ってて家に行き来する関係なら普通はオッケーじゃないかなあ」

 もはやぼくの反応など関係なしに盛り上がるふたりを見ながら、胸の奥にヒヤリとした感覚――それになんとか蓋をする。

「まったく、人のことよりも自分のこと気にしてろよ」

 わざとらしく呆れたようなため息を吐いて、ぼくは食事に集中することにした。ふたりに悪気がないのはわかっている。わかっているからこそ、できるだけ気にしないようにしている不安をえぐられたことに密やかにショックを受けたのだ。

 さっきはあんなに鼻高々な気分だったのが嘘のように、本村に恋人の話をしたことを後悔しはじめていた。