関係は順調だと思っている。
ぼくが宇田を好きで、宇田もぼくを好きでいてくれる。相変わらず週に二度は会っていて、抱き合うときも以前よりずっと恋人らしい触れ方をするようになってきた。
まだ挿入を含むセックスには至っていないが、それはただぼくたち双方に経験がないから慎重になっているだけ。ネットなどで少しずつ方法を学んでいるし、きっと遠からずぼくらは結ばれるだろう。
そんな楽観的な考えに舞い上がりながらも――本当は胸の奥に違和感がくすぶっている。本村や星野の茶化すような言葉が気に障ってしまうのは、目をそらそうとしているそれを見透かされたような気がするからなのかもしれない。
何が不満というわけでもない。目立った問題もない。だが、恋人になってからも心の距離が縮まっている気がしない。
相変わらず昼も夜も仕事で忙しくしている宇田に心配の言葉をかけても「大丈夫だよ」と笑うだけ。一度勇気を出して「そんなに休みなしに働かなきゃいけないの?」と質問してみたことがあるが、あいまいな微笑みでごまかされた。
いつも来てもらうだけじゃなくて宇田の部屋に行ってみたい、と言ったときも同じだ。忙しい宇田にとってぼくのマンションと自宅の往復時間はばかにはならない。彼の家で会うことにすれば、その分の負担を減らせるかもしれないと気遣ったのだが、答えはつれないものだった。
「おれの部屋すごく汚いんだ。そのうち片付けたタイミングで誘うから、待って」
男のひとり暮らしの部屋が少しくらい散らかっていたところで、幻滅などするはずもないのに。
奥ゆかしさは彼の魅力ではあるが、特別な関係になったからには、もっと別の一面を見せて欲しい。ぼくは友人としての宇田の姿ではなく、恋人としての宇田を知りたい。それはキスや愛撫で乱れる姿だけではなく、彼のだらしない部分やみっともない部分だったり、わがままをぶつけてくる姿だったりするはずだ。しかし宇田の折り目正しい態度はちっとも変わらない。
宇田はぼくに心を開いているのだろうか? 不穏な気持ちを胸の奥に抱きながら、「いや、そんなの考えすぎだ」と自分に言い聞かせる。ネガティブな思考に慣れすぎたせいで、幸せを認められずにいるだけなのだと。
何より、恋人の不実や勝手を責めるならともかく、礼儀正しさや穏やかさに不満を抱くなんて贅沢な話だ。だから、ぼくはこのもやもやをどうすべきかわからずにいた。
「やっぱり、宇田くんの部屋に行きたい」
次の水曜日に宇田に会ったときに、ぼくは改めてそう告げた。
いつもと同じ、仕事を終えた宇田がうちにきて、一緒に夕食をとってから抱き合う。宇田はすっかりぼくの義足とライナーを外すのを自分の仕事だと決めてしまったようだ。慣れた仕草でそれらを取り除くと、剥き出しになった断端をいつものように優しく撫でさすった。
ベッドの中でいちゃついて、手だけで互いに一度ずつ射精したら、もう十一時を回っている。
本当はもっと時間が欲しい。暇があれば「男同士のセックスの方法」を調べていたぼくの頭は、すでに知識ではちきれそうになっている。ベッドの下にはコンドームもローションも準備してある。しかし宇田の仕事と仕事の狭間を縫うようなせわしない逢瀬では、なかなか新しいことに挑戦しようという余裕もないのだ。
宇田はどんなに遅くなっても、一度も泊まって行ったことはない。シャワーは浴びる日も浴びない日もあるが、脱いだ服をきっちりと着込んで、さっきまで乱れていた姿が嘘のように涼しげな顔で帰っていく。引き留めたいのは山々だが、この部屋の狭いシングルベッドでふたり眠ることが、明日も出勤しなければならない宇田にとって負担になることもわかっていた。だから、せめてものわがまま。たまには宇田の部屋にも行ってみたい。
「おれの部屋? ごめん、片付けようとは思ってるんだけど、なかなか時間がなくて」
答えはいつもと変わらない。
シャツに腕を通す腕。浮き上がる血管に身惚れながら、ぼくは今日は決して引き下がらないのだと自分に言い聞かせた。
「わかってる、仕事のない日はいつもぼくが時間奪っちゃうからだろ。だから、別に散らかってたって構わない。なんなら掃除しながら宇田くんのバイト終わり待ってるからさ」
「そんなことさせられないよ」
とっておきの名案は、困ったような笑顔であっさり否決。しかし、拒否されればされるほど、疑いにも似た不安が浮かんでくる。
「宇田くん、絶対ぼくを部屋に入れる気ないだろ」
「いや、だから散らかってて足の踏み場もないんだって。絶対そのうち呼ぶから」
「最初にそれ聞いてから、もう何週間も経った。あんまり拒否されると隠しごとがあるんじゃないかって思ったり……っていうのはまあ、冗談だけど」
そう言った途端、ボタンを留める宇田の指が止まった。
なんとか「冗談」という単語を紛れこませたが、ぼくが本気なのは明らかだった。最悪の想像として――家にほかの男か女がいるなんて、そんなこと考えたくないけれど。
あからさまな疑いの言葉に宇田は怯んだ。眉をハの字にして、唇を噛んで、しばらく何やら考え込んでからようやく口にした言葉は、ぼくを喜ばせるものだった。
「わかった、じゃあ……日曜なら。昼くらいに来て、おれがバイトに行くまでだからあんまり時間ないけど、それでいい?」
信用を盾に無理やり譲歩を迫るという男らしさのかけらもないやり方だったが、それでもようやく宇田の部屋に行けるのだと思うと嬉しかった。
週の後半はあっというまに過ぎて、日曜日がやってきた。
はじめて詳細な住所を教えられた宇田の家は、聞いていたとおり、ぼくのマンションからは歩いて十五分ほどの場所にあった。普段の彼の身なりや暮らしぶりにふさわしい、年季の入った低層マンションだった。
宇田の部屋は、一階の奥の角部屋。緊張しながらチャイムを押すとすぐにドアは内側から開いた。
「いらっしゃい」
宇田の顔や声色も、幾分緊張しているようだった。
視線を落とすと狭い玄関には宇田がいつも履いているスニーカーと、古びたサンダルが置いてあるだけ。ほかの人間の気配はない。
「いや、本当に古い部屋だし、人を呼ぶようなとこじゃなくて……」
確かに、部屋は古いだけでなく日当たりも悪い。大きさ自体はぼくの学生用マンションよりやや広いくらいだと思うのだが、薄暗いせいでより狭苦しく感じる。
とはいえ部屋の中は清潔で整っていた。無精な人間の家にありがちな空気の淀みや嫌なにおいもまったくない。むしろ、これまで宇田が言い訳にしてきた「足の踏み場もない」状態とは対局の、殺風景ともいえる部屋を眺めてぼくは思わず謝罪する。
「ごめん、もしかして宇田くん、今日のために大掃除してくれた?」
「……まあ、多少は」
買ってきた弁当を渡すと、宇田はお茶を入れると言ってキッチンに立った。ケトルもやかんもないようで小鍋に水道の水を入れて、一口しかないガスコンロにかける。調理道具もほとんど見当たらない。静けさの中、小さな冷蔵庫だけがブウンとモーター音を立てていた。
宇田は義足をつけたぼくへの気遣いも忘れない。
「あ、土岐津くん。ベッドでも椅子でも、楽な方に座っていいから」
「うん、ありがとう」
殺風景なのは居室部分も同じだ。パイプベッドには薄っぺらの枕と毛玉のついたタオルケット。他に家具と呼べるのは、組み立て式の、古いタイプのPCデスクだけ。そこにはやはり型式の古いデスクトップパソコンが乗っていて、足下にはインクジェットプリンターが鎮座している。
なんだか大学に入ったばかりの学生――しかも十年くらい前の――それが宇田の部屋の印象だった。