第23話

「どうしたの、落ち着かない?」

 部屋の真ん中に立ったまま、いつまでも周囲を見回しているぼくに、宇田は不審そうに声をかけてくる。

「いや、宇田くんはここで暮らしているんだなと思って」

「……人を招くような部屋じゃないって、これで納得しただろ」

 ようやく恋人の部屋に上げてもらえた喜びも感慨も、どうやら伝わっていないようだ。鈍いのか、それともこの部屋に人を招くことをそんなに恥ずかしく思っているのか。いずれにせよ本人が気にするほどひどい環境であるようには見えない。

「ぼくの部屋だってたいして変わらないよ。それに、自活してるってだけでも尊敬する」

 事故に遭うまではアルバイトをしていたし、事故後は障害年金を受給するようになった。とはいえそれだけで生活するには程遠い。結局のところぼくの学費と生活費の多くは親頼りでいる。懸命に働いて自分の稼ぎだけで暮らしているだけでも宇田は尊敬に値する。

「褒めてくれるのはありがたいけど、仕事っていってもアルバイトに毛が生えたようなものだし。土岐津くんは大学を出たらきっと、もっといい就職ができるよ」

「どうかなあ、脚のこともあるし……」

 症状が安定していることから、身体障害者の就職は比較的容易であるとも聞くが、インターネット上では仕事で苦労したという話も多く見かける。

 本村だって就職活動ではあんなに疲れ果てていたのだ。来年の春にはこの体でスーツを着て企業を回らなければならない――そしてもちろんそこでは、いろいろな人に自分の体について説明しなければいけないのだと思うと気は重い。

「宇田くんは、仕事好き?」

 確かコールセンターの仕事はもう数年続けているのだと言っていた。ぼくの貧困なイメージでは、コールセンターというのは厄介な問い合わせやクレームの応対に追われるたいへんな仕事だという印象がある。何より、口数が少なくおとなしい宇田が「話すこと」を仕事にしているのは不似合いにも思える。

 宇田の仕事や生活ぶりに口に出すことには遠慮があるが、家に入れてもらえた安心もあってこのくらいの質問は許されるのではないか。そう思いつつ不安なぼくは、宇田の顔色を伺う。

「えー、どうだろう。好きとか嫌いとか考えたことないな」

「そうなの? でも、最初は他の仕事と比べて興味があったから応募したんじゃなくて?」

「深く考えなかったな。けっこう時給が良くて、学歴いらなくて、研修してくれるっていうから……」

 ――、か。

 ぼくはますます不思議な気持ちになる。夜間や休日のアルバイトを欠かさない理由も同じなのだろうか。正社員でもなく、もちろんボーナスもない。それでも月に二、三十万……もしかしたらもっと収入はあるはずだ。一体宇田は何のために金を稼いで、その金をどうしているのだろう。そんなことを考えながら改めて殺風景な部屋を見渡した。

 小鍋から真っ白い湯気が上がると、宇田はシンクの上にかかった網棚からマグカップを取り上げて、インスタントコーヒーの粉を入れた。

 部屋にやってきた宇田に促されて、一脚しかない椅子に座った。座ると軋んだ音がして、背もたれががたつくそれは、ホームセンターで安売りしているようなPCチェア。宇田は机のキーボードを隅に避けてマグカップを置くとぼくが買ってきた弁当をひとつ差し出した。

 そういえばこの部屋には食事をするためのテーブルはない。

「いつも、どこで飯食ってるの?」

「……そのデスクで」

「だったら宇田くん使いなよ」

 ぼくは慌てて椅子から立ち上がろうとするが、宇田に押し止められた。

「いいって。本当に、気にしないで」

 そう言ってさっさとベッドに腰かけると、宇田はふたをとった弁当を膝に乗せた。マグカップはどうするのかと見つめると、板張りの床に置いてしまった。

 不便な態勢で黙々と食事をはじめる彼の姿に、罪悪感が湧き上がる。こんなに質素で、人を招く想定すらされていない部屋で宇田は静かに暮らしている。なのにぼくは勝手に焦って、他人の存在を疑った。そんな自分の心の狭さが恥ずかしかった。

「どうしたの、土岐津くん。食べないの?」

 宇田の声に、あわてて割り箸を手に取った。よく見るとマグカップはピカピカ光って真新しい。もしかしたら宇田はぼくのためにわざわざこれを買ってくれたのだろうか。そう思うと胸が熱くなった。

「あのさ、宇田くん」

「なに?」

「もしかして、だけど。この部屋に来たのってぼくがはじめてだったりする?」

「そうだよ」

 あっさりとうなずいた宇田は、あからさまに頬をゆるめたぼくを不思議なものを見るような目で見つめた。いつもそうだ。宇田はぼくが愛情を伝えても彼を求めても拒みはしない。そのくせ不思議そうな戸惑ったような表情を見せるのだ。ぼくにとってはそんな宇田の反応の方がよっぽど奇妙に思える。

 そしてたまに不安になる。

 本当にぼくの気持ちは宇田に伝わっているのだろうか、と。

「宇田くん、なんでそんなびっくりしたような顔してるの?」

 思わず訊ねると、宇田は口にした唐揚げを咀嚼して飲み込んでから答える。

「いや、こんな何もないところにきて、どうして嬉しそうな顔してるのかなって思って」

 ――不安的中。やはり宇田はとことん鈍感なのだ。

 婉曲な表現では伝わらないのかもしれないと腹をくくり、ぼくは恥ずかしいくらい直接的な言葉を投げることにした。

「好きな人の家にはじめて上げてもらって、喜ばない奴はいないよ。しかも自分が宇田くんの部屋に入る最初の人間なんだから、特別扱いしてもらえたみたいで……嬉しいさ」

 甘い言葉を吐くのは得意ではない。自分としては精一杯のセリフに顔が熱くなるほど照れくさいのだが、宇田は少し照れたように――そしてやはり不思議そうに首を傾げるのだった。

「……そんなにふうに言ってもらえるようなこと、何もしてないのに」

 数時間ほど宇田の部屋にいた。テレビもないし、椅子がひとつではデスクトップパソコンの前に並ぶわけにもいかず、正直時間を持てあました。作りのちゃちなパイプベッドはふたり座るだけで床板がたわみ、その上で抱き合う勇気は持てなかった。

 今日も宇田は夕方からアルバイトだ。一緒に家を出て彼は仕事に向かい、ぼくは家に帰る予定にしていた。

 そろそろ出かけようかという頃に、宇田のスマートフォンが鳴った。どうやらコンビニエンスストアの店長かららしい。

「えっと、来週ですか? ……えっとちょっと待ってください」

 宇田は電話のマイク部分を手で塞いで「ちょっと、ごめんね」とぼくに告げると、キッチンへ向かう。そういえばびっしりと仕事の予定で埋まったカレンダーが玄関近くに貼ってあった。

 いまどきのサービス業や運輸業は人手不足で苦労しているという話はたまに耳にするが、どうやらそれは事実なのだろう。宇田と一緒にいるとしょっちゅうこういう電話がかかってくる。

 電話の多い順にコンビニの店長、宅配便集配所の正社員、たまにはコールセンターのマネージャーからもかかってくる。急に人ぐりがつかなくなったからシフトを変更したいとか、残業して欲しいとか、コンビニの場合は他店舗にヘルプに入って欲しいという頼みも多い。そして優しい宇田はいつも丁寧に話を聞き、できるだけ相手の希望に応じようとするのだ。

 キッチンから聞こえてくる宇田の声に耳を傾けながら、ぼくは外を眺めた。夏の日はまだ高い。帰りも汗をかくだろうな……そんなことを考えながら、外の暑さを確かめようと窓の鍵に手をかけた。

 窓の向こうには小さなバルコニー、そこにふたが閉まりきっていない大きな段ボール箱が置いてあった。濡れてもいないし傷んでもいないから、普段からそこが定位置というわけではなさそうだ、

 大掃除で片付けきれなかったものをバルコニーに出してあるのだろうか。宇田がぼくの来訪を前に一生懸命片付けをしている場面を想像すると微笑ましくてたまらない。

 箱の内側には本の表紙が見えた。宇田がどんな本を読むのか興味をかられて、ぼくはそっと段ボールのふたを持ち上げた。

 まずは古い参考書が数冊。浪人していた頃に受験勉強に使っていたのだろうか。その隣にあるのは大判の分厚い本――表紙には人間の足関節のレントゲン写真が載っていて、タイトルは「図解・整形外科手術・第8巻(足部)」。

 思わずぼくは振り返って宇田の気配を確かめた。複数のシフト変更の相談をしているのか、まだ話は終わりそうにない。

 一冊だけではなく、段ボールのそのエリアは医学の専門書、しかも脚の外科手術に関する本ばかりだった。ひとつひとつ表紙を確かめながら鼓動が激しくなる。なぜ宇田はこんなものを持っているのだろう。

 そしてたくさんの本のかたわらに、雑然と詰め込まれているクリアファイルや大判の封筒。本よりもよっぽど個人的なものに思えるが、ぼくはもうがまんすることができなかった。

 ファイルを手にして開くと――膝下から切断された脚の写真があった。

 もちろんそれはぼくの脚の写真ではない。見知らぬ誰かの写真。多分インターネット上にある写真を印刷しただけのもの。

「なんだ、これ……」

 意味がわからずファイルのページを繰る。しかしめくっても、めくっても出てくるのは同じような写真ばかり。いや、「同じ」というのは語弊がある。年齢も背格好も、脚のアップか全身図かも関係ない。

 大量の写真の共通点はひとつ――被写体が「左膝下を切断した男」であることだけだった。

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