第25話

「宇田さん最近全然こっち来ないんですけど、元気かなあ。会ったりします?」

 よりによってこのタイミングで話しかけてくるなんて。先週までのぼくならば歓迎していたはずの話題だが、いまは宇田の名前にどう反応すれば良いのかわからない。

「……ええ、たまに。相変わらず忙しそうですよ」

 できるだけそっけない返事をしたつもりだが、どうやら伝わらなかったようだ。

「ですよねえ。他にも仕事掛け持ちしてるって言ってたもんな。宇田さん四丁目店のスタッフなのに、オーナーに頼まれたらどこでも手伝ってくれるし」

 感心したように巻は嘆息を吐く。宇田の真面目さや人の良さは同僚も認めるもので、決してぼくの前だけで取り繕っていたわけではない。そう思うと少しだけ心が慰められる。

 疑いにまみれて、でもぼくはまだ心の中では宇田を信じたがっている。彼が誠実な人間であるという小さな証拠を拾い集めては、なんとか希望にすがろうとしているのだ。

「宇田くんらしいですね、優しいから」

 ぽつりとつぶやいて、この店で彼の姿を見つけた日のことを思い出した。あの再会がなければ、ぼくたちは二度と会わないまま終わっていただろうか。たった一度雨の日に行き合って別れた人間として、すぐに記憶からも消えていったのかもしれない。

「そうそう。宇田さんと話してるのを最初に見たとき、ちょっと驚いたんですよね」

 まるでこちらの心を読んだかのように巻も「あの日」の話を口にする。しかし、ぼくには彼女の言わんとする意味がわからなかった。

「驚くって、どうしてですか?」

「だって宇田さんってシャイっていうか、おとなしいタイプでしょう? 自分から人に声をかけるようには見えないから、どうやって友達になったのかなあって」

 巻は、噂話をするときのように声をひそめた。

 ぼくは左脚を軽く指先で叩いてみせる。

「あの少し前にでちょっと困ることがあって、通りかかった彼が助けてくれたんです。最初はそれっきりで……この店で会ったのも完全な偶然ですよ」

 彼女の言うとおり、宇田は決して社交的なタイプではない。あのときも、ぼくがしつこく話しかけたから連絡先を教えてくれただけで、彼はいつだって受け身だった。雨の日に声をかけてくれたのは、ぼくがよっぽど惨めに見えたからだろう。

 だが、巻はダークオレンジのメッシュを入れた髪を揺らしながら怪訝そうに首をかしげる。

「え、そうなんですか? でも、宇田さんは、あなたのことを前から知ってたはずですよ」

「……は?」

 今度はこちらが変な顔をする番だ。

 一体彼女はいつの、何の話をしているんだ。

「前から知ってたって、それ、いつの話?」

 雨の日の出会い。二度目はコンビニ。それ以外に答えはないはずだ。

 こう言っては失礼だが巻はそんなに賢そうには見えない。何か誤解をしているのだろうか。しかしそんな考えも、続く言葉であっさりと否定されてしまう。

「まだ寒かったから、冬……二月くらいだっけ? お客さん、松葉杖ついて何度かここに来ましたよね? そのとき宇田さん、あなたのことじっと見てたんです。あの頃は四丁目店が全面改装してたから、ずっとこっち手伝ってくれてて」

「二月?」

 ドクンと心臓が打つ。日曜日に宇田のバルコニーで奇妙なコレクションを見つけたときに受けたショック――巻の言葉は、それに負けないくらいの破壊力を持っていた。

 心当たりはある。半年にわたる入院を終えて、ぼくがやっと家に戻ったのは二月のこと。両親はしばらく実家で療養するよう勧めたが、通院を理由に断ってひとり暮らしのマンションに帰ることにしたのだ。

 退院した直後はまだ義足ができていなかったので、外出するときには松葉杖を使っていた。長いズボンを履いていても左の膝下が「ない」のは明らかで、そんな自分を人目にさらすのが嫌で嫌でしかたない。道を歩くときも、必要最小限の買い物をするときも顔を伏せていて、人の顔なんてろくに見ようとしなかった。

 その頃に、この店で宇田と会っていただと?

「いや、でも……見てたっていうのは、考えすぎじゃないですか」

 ただの客と店員。宇田だってこちらを個別認識していなかった可能性もある。だって、松葉杖のぼくを見たことがあるなんて、宇田の口から一度だって聞いたことはない。

「考えすぎじゃないですって。宇田さんがあんまりあなたのこと見てるから、つい私も気になっちゃって。あのCMの俳優に似てるよね、なんて話してたんですよぉ」

 しつこく否定されるのにうんざりしたように、巻の声は間延びする。

 ごとん、と音がして右手が軽くなった。手にした二リットルのペットボトルが床に落ちるのを見て、ハッとしたように巻が店員の顔に戻る。

「あ、なんか喋りすぎちゃってすみません。他になければ、お会計しますか?」

 義足ではしゃがむのに不自由があると思われたのか、彼女はさっとしゃがんでペットボトルを拾い上げると、ぼくの前に立ってレジに向かって歩きはじめた。

 頭の中は真っ白だった。

 ようやく何もかもがつながった。

 なぜ宇田が、あの雨の日にぼくに声をかけたのか。なぜ、躊躇なしに脚に触れてきたのか――そして、性的に触れ合うことを許したのか。

 ぼくがネガティブなことばかり口にする面倒な人間でも気にせず、一緒にいてくれる理由。それはすべて、彼のコレクションにつながっているのだろう。

 

 七時半過ぎに宇田はやってきた。ドアを開けるといつものように、買ってきた弁当の入った袋を差し出す。

「遅くなってごめん、ちょっと仕事が長引いて」

 彼の様子は普段とまったく変わらない。ぼくがすべてを知ってしまったとは夢にも思っていないのだろう。その能天気さが憎らしい。

 医学書や写真を目にしたときは、目的がわからないだけに迷いがあった。勘違いして先走って宇田との関係を壊すことが怖いから、黙っていた。だが「欠損フェチ」なるものの存在や、雨の日の出会いよりずっと前に宇田が左膝下のないぼくを見出していたことを知ったいまでは――もう遠慮も我慢も必要ない。

 壊れることを心配するほどの関係なんて、最初から存在しなかったのかもしれない。だって、宇田の本当の目的は――。

「宇田くん、聞きたいことがあるんだ」

「どうしたの、改まった顔して」

 テーブルにビニール袋を置いて振り向いた宇田に、小さく息を吸ってからぼくは切り出す。

「君のベランダにある箱の中にあったもののことだけど」

「え……」

 宇田の顔が、さっと赤くなって、次の瞬間真っ白くなった。

「悪気はなかったんだ。本が入っているみたいだったから、宇田くんはどういう本が好きなのかなって気になっただけで」

「土岐津くん、窓を開けただけだって……」

 おそらくそのつぶやきにぼくの嘘を責める意図はなかった。あまりの驚きと同様に心の声がそのまま口からこぼれただけ。だが、いずれにせよ宇田の正直すぎる言葉はぼくの怒りを呼び起こす。

 やはりあの日、宇田はベランダを気にして、ぼくの行動を疑っていた。そして「窓を開けただけ」という答えに安堵して――そのままぼくを騙し続けようとしたのだ。

 もう容赦などいらない。ぼくはポケットから例の紙切れを取り出して宇田の目の前に広げた。

「どうしてこんな写真ばかりを、たくさん持ってるんだ」

 決定的な証拠品を突きつけられた宇田は、泣きそうに顔をゆがめる。その姿を見ても、ちっとも可哀想だとは思えなかった。

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