第27話

 宇田はぼくの脚をちろちろと舌で舐めた。喜んで、という感じからはほど遠いのは怯えているからか。

 手で触れられるのとはまったく異なる感触だし、そもそもシチュエーションからして違う。怒り、苛立ち、それから胸の痛み。恋人として抱き合っていた「つもり」だった甘い行為とは対照的ともいえるこの状況にもかかわらず、くすぐったく濡れた感触にやがて腹の底がチリチリと熱を感じはじめる。

 どうかしている。

 なぜこんなときに性欲なんて感じることができるんだろうか。自分でも自分を気持ち悪いとすら思う。なのに、眉を潜めて苦しげに――だがおそらくは本人なりに必死にぼくの欲求に応えようとする宇田の姿を見下ろしているうちに、ぼくは確かに高揚しているのだった。

 ベッドに膝立ちになっているぼくは、すでに下半身は下着だけになっている。下を向いていれば嫌でも形を変えていく股間が目に入る。

「……最悪だ」

 絶望的な気持ちでつぶやくと、宇田の視線が揺れる。顎がだるいのか唇の端にみっともなく唾液がにじみ、舌の動きは遅くなりつつあった。

 そっと視線を動かすが、宇田の股間にはまったく昂る気配はない。そのことにむしょうに腹が立った。憤っているのも悲しんでいるのも実は自分だけで、実は宇田は冷めきっていて、腹の中では滑稽に取り乱すぼくを嘲笑っているのではないか――。

 ぼくは左脚を宇田の口元から離すとベッドの上に腰を下ろす。急に解放されたことに驚いたように目を丸くしてから、宇田は控えめな仕草で口をぬぐった。

 唾液で濡れて赤く艶めく唇を目にして欲望は高まる。自虐と嗜虐の入り混じった、倒錯した考えに取り憑かれたぼくは宇田の髪を鷲掴みにして、その顔面を今度は自分の股間に押し付けた。

「……っ」

 突然の乱暴に宇田が小さく呻き声をあげた。

 これまでは手で触れることはねだっても、口での奉仕を求めることは一度としてなかった。男同士のセックスについて経験がないゆえに用心深くなっていた。性急に関係を進めすぎて失敗することや、宇田を傷つけることも怖かった。だがそんな配慮の数々も、自分が彼の性的欲求を満たすための道具だったのだと思うと虚しい。そしてその虚しさを埋めることができるのは暴力だけ。

 どうせ何もかも壊れてしまうなら――徹底的に。

だけじゃなくて、ちょっとはこっちにもサービスしてもらおうか」

 手に力をこめると下着越しに彼の柔らかい唇や細い鼻筋を感じ、ぼくの勃起は硬度を増していく。やがて完全に勃ち上がった頃合いを見計らって、下着をずり下げた。

 飛び出したペニスは弾力で跳ね返り、真っ赤な亀頭が宇田の鼻先を打つ。彼が少し顔をしかめたように見えたのは、驚きのせいなのかもしれない。だがぼくはそれを嫌悪のあらわれだと感じた。

「舐めろよ」

 そう言ってペニスを彼の鼻に、頬に、唇に押しつける。

「それとも、脚は舐めてもこっちは嫌? そういえばいつも、こっちは頼まなきゃ触ってくれないんだっけ」

 薄いが柔らかな唇で先端を擦ると、場違いなほどの快感が脳天まで突き抜けた。このままもっと宇田を思い通りにすれば――そして快楽に身を任せれば、いまだけは辛い気持ちを忘れることができるかもしれない。

 手を両の頬に当てて力任せに押すと、宇田の唇がわずかに開く。そこにすかさず怒張したものをねじ込んでいった。

「ほら、もっと口開けて。せめて半分くらいは入るだろ」

「……ん、ぅ」

 ミルクを飲む子猫のように脚を舐めていたのとは違う。ぐいと一気に亀頭全体を口の中に押しこむと宇田はくぐもった声をもらして目に涙を浮かべた。それから少しでも呼吸を楽にするためか顔の向きを変え、結果的にはより深くぼくのペニスを受け入れる姿勢になった。

 目を閉じて、温かい口腔の感触だけに集中しようと努力した。腰を前後に動かし、頬、舌、口蓋で勃起をごりごりと擦るとこらえきれずぼくの口からは快楽の声がこぼれる。

「う……あ」

 もっと頭を真っ白にしたいという欲望と、達した後に残るであろう残酷な現実。ふたつの思考に引き裂かれながらも本能とは悲しいもので、ぼくは宇田の口を相手にピストンを激しくする。

 最後は、彼の後頭部をぐっと押さえ込んで、喉奥に向けて射精した。

「……っ、ぐ」

 絶頂の気配を感じ取れていなかったのか、その瞬間、宇田はまるで嘔吐するときのように妙な音を出して目を見開いた。反射的にペニスを引き抜いたのは正しかった。判断が少し遅ければ、デリケートな場所に歯を立てられていたかもしれない。

「っ、げほっ、……うっ」

 身体中を揺らして激しく咳きこむ姿にも、哀れみの心は浮かばなかった。

「吐かないで」

 そう命じると宇田は慌てて両手を口に当てる。それからしばらく苦しげな咳を続けていたが、最終的にはごくりと喉仏を動かしてぼくの出したものを飲みこんだ。咳の勢いで手のひらに吐き出した分も、もちろんすべて舐めさせた。

 あれほど惹かれて、崇めた相手を思うように汚した――歪んだ達成感はすぐに吐精後の疲労感に飲みこまれる。しんなりと柔らかくなったペニスを下着にしまうと、ぼくはまだ苦しげに肩で息をする宇田に目をやった。肩を丸めているからか、普段よりもずっと小さく弱々しく見えた。

 言い返すことも抵抗することもなく、一体何を考えているのだろうか。

「宇田くん、従順なんだね」

 皮肉たっぷりの言葉に、うつむいたままで宇田は小さくつぶやく。

「……それで少しでも、土岐津くんの気が晴れるなら」

 ぼくの疑いを否定するわけでもなく。それでも好きだと言い募るわけでもない――ようやく宇田から聞くことのできた本音はあまりに悲しいものだった。

 宇田が何を言ったところで彼を許す気になれたかはわからない。だが、それでも少しは別の言い方もあったはずだ。「欠損に惹かれるのは事実だが、一緒にいるうちに君という人間のことも好きになっていた」とか「脚のない人間の中でも土岐津くんは特別だった」とか。その程度のきれいごとだって、いくらかは僕の心を救ったはずだ。

 だが、宇田は一切の甘い言葉を吐かない。その正直さが憎らしかった。

「あの日……あの雨の日、宇田くんは本当に偶然通りかかっただけ?」

 宇田は首をあいまいに振る。

「珍しくアルバイトがなくて……まっすぐ家に帰るつもりだった。そうしたら偶然、土岐津くんを見かけた」

「じゃあ、前からぼくのことを知っていたっていうのは本当なんだな」

 今度ははっきりと、うなずく。

「でも、だからどうしようって気もなくて……。第一、何度かバイト中に見かけただけだ。君がどこに住んでいるのかも、どこに行けば会えるのかもわからないし、話しかけるような理由もない」

 だが、偶然あの日の宇田は昼の仕事を終えただけで家に帰ろうとしていた。そして、普段遅い時間に出歩くことのないぼくが偶然大学に行き、帰りに本屋にも寄った。

「声をかけるつもりはなかった。家まで追うつもりもなかった。でも、土岐津くんは急に坂道で転倒して……」

 宇田はそれでもしばらく迷ったのだという。彼自身も心に抱いていた妄想を現実の人間に向けることに躊躇があったのかもしれない。だが、あまりに長いあいだ立ち上がれずにいるぼくを見かねて傘を差しかけてきたのだ。

 この上ない幸運だと思ったあれは、最悪の運命に導かれた出会いだった。あの日、どちらかの予定が少しずれていれば。雨が降っていなければ。ぼくがもう少し足元に気をつけていれば――ぼくたちが言葉を交わすことも、互いに触れることもなかった。

 そして、こんなにも傷つけあうこともなかった。

 鼻の奥がつんと冷たくなって、これ以上涙を我慢することはできそうにない。以前に目の前で泣いたときは、宇田はぼくの髪を撫でて優しく慰めてくれた。でも、今日は何も言わないし、身じろぎもしない。

 冷房の効きすぎた部屋でぼくたちは長いあいだ黙ったままでいた。