脚がひどく痛む。
左膝から下、ふくらはぎ全体がひどく腫れたような、くるぶしの骨が砕かれたような。足の甲を押し潰されているような、脚の指を引きちぎられるような――耐えがたい痛みに身をよじる。
鎮痛剤が欲しい。それも、とっておきに強いやつを。飲み薬なんかでは効かないから点滴を。それでもまだ痛むなら、いっそこんな脚は切り落として欲しい。
――いや、やっぱりそれはだめだ。
切らないで。脚を失いたくない。だってこの脚は……。
そこでふいに耳元に甘い囁き。
「土岐津くんの脚は、きれいだよ」
すぐさま、暗転。
目を覚ますと部屋はすっかり明るくなっていた。
タイマーをかけていたエアコンが切れていたようで部屋はうだるように暑く、耳元ではマナーモードにしたスマートフォンがうるさい音を立てて震えている。
身体中がじっとりと湿って寝間着代わりのTシャツが肌に張り付いている。この汗は暑さのせいか、それとも冷や汗か。悪夢の名残で心臓がまだ激しく脈打っている。わざわざ脚を確かめてみるような真似は、もうしない。「脚がある夢」なんてとっくの昔に見飽きているのだ。
夢からは覚めたが、左脚の痺れに似た鈍く不快な痛みはまだ残っている。ここのところあまり義足を使わずにいることも幻肢痛の悪化に関係があるのかもしれない。でも、そんなことどうだっていい。
しつこく鳴り続けるスマホがうっとうしくて、最終的には電源を落として床に放り投げた。見なくなってそれが大学の誰かからだというのはわかっている。教授か、本村か、それとも星野か。研究室の他のメンバーかもしれない。最初の数日こそ「調子が悪いので、今日は休みます」と律儀に連絡を入れたが、そのうち面倒になってやめた。
どうして最初の入院のときのように放っておいてくれないのだろう。今回だって、こちらが拒絶の意思を示しているのは明らかなはずだ。そんな自分勝手なことを思いながらも、理性は彼らの正しさを認めている。
一度は立ち直り前を向いたように見えた人間が、再びふさぎこむ。その状態に周囲が危機感を抱くのは当たり前すぎるほど当たり前の反応に違いない。
大学に行くのを再び止めてからは、もう二週間は経つだろうか。それはつまり、ぼくが最後に宇田と会った日からも二週間が過ぎたことを意味する。
あの日、宇田は黙ってぼくの叱責を受け入れた。
暴力的な行為の後で虚しさのあまり泣き出したぼくを黙って眺める彼の途方に暮れたような態度が堪えがたく、最終的には自分から「帰ってくれ」と言って追い出したように思う。だが、はっきりいって記憶は曖昧だ。
あとに残されたのは、床に散乱した見たくもない写真やイラストの数々。宇田が持ってきた二人分の弁当は開封されることもないまま、数日後には生ゴミのすえたにおいを漂わせるようになった。疲れた体を引きずってそれらすべてを袋に押しこんで、なんとかゴミに出した。
外出したくない。コンビニエンスストアに行けば、宇田や巻に出くわすかもしれないと思うと、買い物すらおっくうで、水や食品もインターネットで取り寄せている。規則正しい食事などという概念も失っているから、死なない程度の感覚で死なない程度の何かを口に運ぶだけ。もちろん味など感じない。
宇田への失望、怒り、恨みはある。一度救われたと期待したところで落とされた、その苦しみはあまりに大きい。だが、時間が経つにつれて次第に、自分自身を情けなく思う気持ちの方が強くなっていった。
ぼくは宇田と出会い、彼に受け入れられたと感じることで、自分が前に進めたのだと思っていた。脚を失った状態で再び世の中に出ていく勇気を手にし、過去とは違う姿で生きていく決意が固まったのだと信じていた。
でも、いまはわかる。あのとき感じた前向きな思いのすべては、恋愛妄想にうつつを抜かした躁状態にすぎなかった。宇田という理解者を得た気になって舞い上がっていただけで、ぼくの本質は何も変わらず、救われてもいなかったのだ。
だからこそ、宇田がぼくに近づいた動機に不純さを感じてあんなにもショックを受けたし、すべての自信は崩れ去ったのだ。
悪いのは宇田だけではない。弱っていたところに現れた彼に勝手な理想を抱いて、幻想を押しつけていたのは僕だ。宇田が自分のことをあまり話さないことも、彼の側からはっきりとした愛情を示すことがないのも、前からわかっていたことだ。なのにぼくは、勝手に彼との関係を理想化して、都合の悪いことからは目を背けていた。
確かにぼくは傷ついたが――これも「高い代償」だったと割り切るべきなのだろう。その上で、自分の現状を今度こそ本当に受け入れて、一歩外に踏み出すべきだ。頭ではわかっているのに、体は重い。季節は九月に入り正式な復学も迫っている。しかし、どうしても研究室に足を向ける気にはなれなかった。
ベッドから起き上がるのも面倒で、寝起きの尿意をしばらく堪える。がまんできなくなってからようやく起き上がり、片脚で跳ねるようにしてトイレに向かった。片肩をトイレの壁にもたせかけて体を安定させながら、標的を定めて放尿する。いまではこの方法で床を汚すこともない。
部屋に戻ると、スマーフォンを拾い上げる。
溜まった着信やメッセージに反応したくはないが、このまま放っておくと誰かしらが家に押しかけてくるのではないかという恐怖心がある。それと――ぼくはまだ心のどこかで、宇田からの連絡を待っているのだ。
どんな連絡を期待しているのかは自分でもわからない。謝られても言い訳されても簡単に受け入れることはできない。ただ、それが宇田のいびつな性志向に基づくものだと理解した上で……それでもぼくはまだ、毎日のように夢で彼の声を聞く。彼がぼくの断端を撫でて「土岐津くんの脚はきれいだ」という夢を――。
だが、もちろん宇田からの連絡はない。代わりに目に入ったのは、大量の不在着信とメッセージ。しかも、大学関係からだけではない。父親、母親、そして病院。きっと大学が親に連絡をして、親が病院に連絡したのだ。最新の着信とメッセージは母親から。
――大学の方から急に連絡がつかなくなったと聞いたんだけど、大丈夫ですか。心配なので、返事がなければそちらを訪ねようと思います。
とんでもない話だ。
あわてて「ちょっと夏風邪を引いて寝込んでいただけ。元気だから訪問は不要」と返信を打つ。送信すると同時にメッセージに既読がついて、次の瞬間には着信音が鳴っていた。
「……もしもし」
ここで無視すれば、事態は悪化する。嫌々通話ボタンを押すと、母親の声がけたたましく耳に響く。
「あっくん!? 大学の方から、最近姿を見ないし、お友達が連絡しても返事がないって連絡をいただいて心配してたのよ」
「……だから、夏風邪でちょっと寝込んでただけだよ。返事する気力もなくて。だいぶ良くなったから後で返事しとくよ。それに、大学っていったって復学は来月なんだからさ」
夏休み期間に任意で登校していたのを中断したくらいで大騒ぎされるのは心外だ、そんなニュアンスを言外に込めた。だが、心配のツボを刺激されてしまった母はそんなものではおさまらないようだ。
「でもっ、電話しても出ないから病院に相談したら、リハビリも打ち切って通院もしていないっていうし」
「それは義足に慣れて、リハビリの必要がなくなったからだよ。定期検査にはちゃんと……」
そこで、はっと思い出す。
断端の状態も安定してリハビリも終了、とはいえ義足をつけての生活を開始してからはまだ半年も経っていない。特にはじめての夏ということもあり、医師からは月に一度は定期検査に来るようにと言われて、予約も入れてあった。その検診日は――今日。
予約の時間はすっかり過ぎていた。