第29話

 なんとか母親との電話を打ち切ったところで再び着信音が鳴る。今度は病院からだった。予約をすっぽかし嫌味のひとつでも言われるのではないかと思っていたが、事務担当者は親切で、翌日に新しい予約を取り直してくれた。

「ちょうどさっき一件キャンセルが入ったんです。明日は忘れずに来院お願いしますね」

「すみませんでした、必ず行きます」

 中途半端に残った役立たずの脚なんてどうでもいい、もう一生部屋から出なくたっていい。そんなことが頭をかすめるほど投げやりになっていたにもかかわらず、定期検査をさぼる勇気はなかった。

 病院に行く、それはつまり二週間の引きこもりを解除することを意味する。ぼくは床に転がしたままの義足にちらりと目をやった。宇田と最後に会ったあの日以来、一度も装着していない。

 その間外出はゼロで、二度ほど宅配の受け取りのため玄関先に出た。義足なしで配達員に応対するなど過去の自分からは考えられないが、億劫さが先に立った。突然片脚の男を目にした配達員は、おそらく驚愕しただろうが、親切にも荷物を奥まで運ぶ手伝いを申し出てくれた。しかし、荒れた部屋に他人を入れる気にはなれず、ぼくは礼を言って断った。

 壁を伝いながら片脚で跳ねれば室内での移動には不自由ないが、水やら食品やらの入った箱を持って飛び跳ねるほどの体力はない。玄関に置いたままの蓋の開いた段ボール箱から、必要に応じて水やレトルト食品を取って凌いだ。

 だが、怠惰な生活は確実に体に影響する――特にぼくのような障害を持つ人間には――。

 次の朝、通院のためシャワーを浴びて髭を剃り、いざ義足を装着しようとしたところで違和感に気づいた。シリコンライナーが少し緩いが、もともとぴったりと肌に密着するものなのでそこまで問題はない。しかし断端をソケットに差し込んでみると、明らかにサイズが合っていない。動きもせず、食事も最低限しかとらず、この二週間でぼくの左脚は思った以上に痩せ衰えていたのだ。

 踏み出すときにほぼ全身の体重がかかるソケット部分の装着感は、義足の中でも最も繊細な調整を要する部分だ。きつすぎても緩すぎても良くないのは靴と同じ。歩きづらく転倒や事故の危険性が増すのはもちろんだし、義足装着部分の皮膚に深刻なトラブルが発生することもある。

 とりあえず、ソケットと脚のあいだを埋めようとして、僕は断端から膝上にかけて弾性包帯を巻き付けた。

 なんとか歩行可能な状態になったとはいえ、素人の緊急処置ではやはり十分ではなかったのだろう。歩くうちにだんだん包帯がずれて、膝周りに靴ずれのような痛みを感じはじめた。痛む箇所をかばって歩けば、当然他の部分に負担がかかる。

 病院に着いた頃にはソケットとの摩擦のせいで義足装着部は熱を持った痛みにさいなまれ、股関節はきしみ、左膝上の筋肉は張り詰めていた。

 

「あれー、どうしちゃったの、これ」

 包帯とシリコンライナーを取り去った患部を目にした担当医は目を丸くした。膝周囲の皮膚は真っ赤で、特に体重のかかる部分は皮膚がめくれて血が滲んでいた。

「ずっと調子良かったのに。……新しい傷だな。ここまで来るあいだ、かなり痛かったんじゃないの?」

「実はちょっと夏風邪で寝込んでて。運動もできず食事もあまり」

 ぼくは母に使ったのと同じ「夏風邪」という方便をここでも持ち出した。主治医はめくれた皮膚の様子を確かめながら、うんうんとうなずいて見せる。

「ああ、痩せてソケットが合わなくなったのか。土岐津さんの場合は内臓疾患持ってるわけじゃないから、そこまで心配することはないけど、夏場は蒸れて皮膚トラブル多くなるからね。化膿しないようにケア頑張ってもらうのと、一応内服も出そうか」

 その口調が深刻でないので、ほっとした。

 最近では、ぼくのように外傷が理由で四肢を切断する患者は相対的に少ない。この病院でも切断手術を受けた患者の多くは、糖尿病や骨肉腫といった疾患が原因なのだという。特に糖尿病による壊死が原因で手足を切断した場合は、疾患の悪化や切断部の予後不良で深刻な合併症を起こすことも多く、注意深い経過観察が必要とされるらしい。

 長い闘病生活の過程で切断を決意するのと、ぼくのように考える間も選択の余地もなく脚を失ってしまうのと、どちらがましなのかはわからない。

 パソコンに向かって診療記録を打ち込みながら、医師は続ける。

「土岐津さん、リハビリ打ち切ったんだっけ。でも、ちょっと歩いただけでこれだけ傷ができるようだと、義足の調整について理学療法の先生と話した方がいいね。必要なら装具士さんとも連絡して……」

「いやっ、それは」

 驚いたぼくは思わず大声を出してしまった。そして、医師に不審を抱かれまいとあわてて平静を装う。

「えっと先生。ちょっと夏風邪で痩せただけなんで、すぐ戻ります。わざわざ義足を調整してもらう必要はないです」

 しかし医師は納得いかないといった様子で、ぼくを説得しようとする。

「でも、病室に入ってくるときの歩き方も変だったし、無理してるでしょ。義足本体はともかく、包帯の巻き方ひとつで改善することもあるからさ。第一その脚じゃ帰りがきついよ。担当は宮脇さんだったっけ」

「あの、先生! 宮脇さんは、ぼくは……ちょっと」

 これ以上「夏風邪」は通用しないことを悟ったぼくが正直に宮脇のなを口にすると、医師の表情が変わる。身を乗り出して顔をぼくに近づけて、内緒話をするときのように小さな声で彼は聞いた。

「もしかして土岐津さん、宮脇さんが苦手?」

 ここに至って、否定する選択肢はない。

「――実は、ちょっとだけ」

「リハビリ打ち切ったのも、そのせい?」

 ここは話に乗っておいた方が良さそうな気がして、ぼくは首を縦に振った。とはいえ医療者としての宮脇に文句があるわけでもないし、決してクレーマーになりたいわけでもないから、言い訳のように付け加える。

「宮脇先生に問題があるわけじゃないんです。実際、彼のおかげで義足歩行はすごく上達したし。ただ性格的に……あんまり相性がよくないというか」

「あー、彼は物言いがはっきりしてるから。性格の合う合わないはありますよね。ただ、義足リハについては知識も経験もあるからなあ」

「それはわかってますが」

 性格が合わない、では表現が穏当すぎただろうか。だが、ここでなんの関係もない担当医相手に宇田の話をするわけにもいかない。ゴリ押しするだけの強さもないぼくは結局、今日のところは医師に押し切られてしまった。

「担当の変更は検討します。次回からは新しい理学療法士をつけられるようにするんで、今日だけは宮脇さんに会って行ってもらえます? ちょっと包帯の巻き方指導するだけで、すぐ終わるから」

「……わかりました」

 言い合ったところで無駄なので了承したふりをしたが、やっぱり嫌だ。よりによって宇田とあんな別れ方をした後で、宮脇の顔など見たくない。ぼくはそのまま受付に向かった。

「すみません、急に急ぎの用事ができてしまって。リハをキャンセルして帰りたいんですが」

「でも、脚が」

 顔なじみのクラークは窓口越しにぼくの下半身に目をやる。痛む箇所をかばうためにひょこひょこと歩く姿はよっぽど頼りなく、危なげに見えるのだろう。ぼく自身も、この状態で家まで何事もなくたどり着ける気はしない。

「そうだ、タクシー。帰りはタクシーを呼びますから。だからリハは日を改めて!」

 車を呼ぶという名案を意気揚々とまくしたてているところで、後ろから声をかけられた。

「包帯で装着部の微調整するだけならば、タクシーが来るまでに終わりますよ」

 振り向くと、そこには宮脇がいた。