第31話

「左脚が……存在するべきじゃない?」

 ぼくには、宮脇が何を言っているのかわからなかった。

 人間――いや哺乳類というのは基本的なデザインとして四肢がそろっているものだ。もちろん先天的、後天的になんらかの事情で欠損することはあるが、それはあくまでアクシデントであり、手や脚が「存在すべきじゃない」という考えはあまりに突飛に感じられた。

「土岐津さん、外に出ませんか?」

 ぼくが明らかに面食らって「理解できていない」顔をしているからか、宮脇は少し考えてから、場所を変えて話をしようと提案した。

「ここ、他の施術にも使うんで長居できないんですよ。……もっとも土岐津さんが急いでいるなら引き止めるつもりはありませんが」

 誘いを受けることは、先ほど急用ができたと訴えたのが嘘だったと認めることを意味する。気まずくはあるが、そもそも宮脇はそんなこと百も承知だったはずだ。

 院内の休憩スペースや面談スペースでは人目につくかもしれないから、建物の外に出た。日差しは強いものの意外と湿度は低く、木陰に入ると耐えられないほどの暑さではなかった。

 空いているベンチに距離をあけて座る。

 宮脇は習慣的な仕草でポケットを探り、何もないことに気づいて舌打ちする。健康と運動には人一倍熱心な体育会系というイメージだが、もしかしたら喫煙者なのかもしれないと思った。

 重たい話の前の一服が叶わなかった宮脇はあきらめたように口を開く。

「真輔のあれは、ちょうど土岐津さんの幻肢の逆パターンですね。どっちもボディ・イメージの不一致です」

 ぼくの脳は失った脚のイメージを持ち続け、いまも〈左脚が存在しているはずだ〉と幻の脚の痛みを作り出す。一方の宇田の場合は、脳が〈左膝から下は存在しないはずだ〉と認識している――宮脇はそう言いたいのだった。

 説明自体は明快だ。だが、やはりそれはおかしいことのように思える。

「でも、ぼくの場合は元々脚を失くしたんですよ? だからこそ、脳が古いイメージを引きずってる。それはいかにもあり得るのことです。でも宇田くんの場合は、脳が混乱するような理由がない」

 たとえば生まれつき宇田に脚がなくて、最近になって急に生えてきたのならば宮脇の言うことも成り立つ。だが、当たり前の話だが、人間の脚はトカゲのしっぽのように簡単に生えてくるわけではない。腕の移植手術についてはごくごく珍しい例として聞いたことがあるが、脚の移植については手術例もないはずだ。

 つまり、実際に存在する左脚を〈存在すべきじゃない〉と感じるのは、あまりに奇妙だし現実味がない。もしかして、からかわれているのではないか。ぼくは疑わしさ丸出しで宮脇を見る。そんな反応すら予想どおりだったのか、宮脇は薄く笑ったようだった。

「まあね。最近になって一応ICD……WHOの疾病分類には追加されたけど、ちゃんとした診断基準もないし、いまも病気だと認めない医者や研究者も多いらしいから」

「病気?」

「ああ、BIIDって呼ばれるらしい。Body Integrity Identity Disorderの略。えっと、日本語だと身体完全同一性障害だったっけ」

 呪文のような言葉がすらすらと口からこぼれる。

 医療従事者ではあるが、宮脇は医師ではない。その彼が診断基準もないマイナーな疾病について職業上知るというのは考えづらいから、きっと宇田のために調べたのだろう。宮脇はぼくの知らない宇田の姿を知っている――かつて身を焼いた嫉妬はなんのことはない、ただの事実だったというわけだ。

 感情的な引っ掛かりはともかく、BIIDという病気はぼくにとっては初耳で、衝撃的だった。自身の五体満足な体について「本来は障害があるはずだ」と思い込む。そんなことが本当にあるのか。

 宮脇によるとBIID患者の多くは「あるべきではない手足を持っている」ことへ違和感を訴えるが、中には、本来の自分は目が見えないはずだとか、耳が聞こえないはずだとか、「持っていないはずの感覚があること」への苦痛を訴える患者もいるのだという。

「にわかには信じられません。そんな病気」

「だったら後で調べてみればいい。ネット上にも多少情報はある。英語圏ではオンラインの当事者コミュニティもあるって聞いたことありますよ。土岐津さんが疑ってた『四肢欠損性愛』をBIIDの一種に含めることもあるようだ」

 宮脇はここで、BIIDの存在の有無について討論するつもりはないのだと言い、それにはぼくも同意する。素人ふたり言い合ったところで結論など出るはずはないのだから、時間を費やすだけ無駄だ。

 だとすれば、他に聞くべきことは――。

「宮脇さんは、なぜ宇田くんがそういう病気だか妄想だかを持ってるって言い切れるんですか? 本人の口から聞いたとか?」

 想像するだにデリケートな話題だが、それを打ち明けるほどふたりは親しかったのだろうか。いまとなってはどうでもいいことのはずなのに、気づけば彼らの関係を詮索している自分のしつこさにはうんざりする。

 違いに視線を合わせる気にもなれず、ぼくも宮脇も足下ばかりを見つめていた。木の葉の隙間を通り抜けてくる日差しがちらちらと目の端で揺れる。そこに宮脇の手の形をした影が現れ、指をひとつ、ふたつと折り数える。

「……俺がちょうど病院に就職した頃だから……六、七年くらい前。けっこう前のことですが、真輔が脚を切ろうとしたんです」

 淡々とした口ぶりは、わざと感情を抑えているからなのだろう。だって、こんな話を平気でできるはずがない。

「脚を……?」

「バケツいっぱいに氷を入れた中に左脚を入れて、膝上をぎゅっと縛った上で膝下をナイフで斬りつけたそうです。幸い、いくつか傷を作ったところで帰宅した母親に見つかったんですが」

 体から生えている脚を〈存在すべきじゃない〉と疎ましがるのも異様だが、その脚を実際に切ろうとするのはさらに一線を超えた行為だ。そんな馬鹿な話があるはずない――言いかけて、すぐに飲み込む。

 ぼくは、服を脱いだ宇田の左脚にあった古傷のことを思い出していた。ちょうど膝下あたりに真横に走っていた、数本の細いケロイド状の傷。宇田は幼い頃の怪我だと言っていたが、言われてみれば、あれは脚を切り落とそうと試みたときのためらい傷には見えないだろうか。

 宮脇はぼくの動揺を知ってか知らずか、遠い目で続ける。

「その数年前から、いや多分本当はもっと前から様子がおかしかったんです。でも、まさかあんなことを考えていたとは」

 

 女兄弟しかいない宮脇にとって、六つ違いの隣家の少年は弟同然だったのだという。彼は幼い頃から宇田を可愛がり、宇田もまた宮脇を慕った。

 とはいえ宮脇が特別だったわけではなく、幼い頃の宇田は近所でも評判になるほど人懐っこく愛嬌のある子どもだったようだ。

「あんなに誰でもニコニコ話しかけていくようじゃ、誘拐でもされるんじゃないかって親御さんが心配するくらいでしたよ」

 成長するにつれて性格が変わることは珍しくないとはいえ、ぼくが知る内気で控えめな宇田の姿とはずいぶん違って聞こえる。

「真輔が急にふさぎこむようになったのは、小学校卒業する前後だったっけな」

 それまでの宇田は地域の陸上クラブに入って、県の駅伝チームに選ばれるくらい長距離が速かった。なのに突然「脚が動かないから走れない」と言ってクラブをやめてしまい、中学校でも運動部には入らなかった。

「医者には見せたんですか」

「当たり前だけど、異常はなかったそうだよ。真輔自身が違和感をうまく表現できなかったのか、それとも正直な気持ちを人に話すとおかしいと思われると警戒していたのかはわからない」

 ただ、周囲は宇田の奇妙な訴えや、性格の変質の理由を思春期や反抗期と結びつけて受け止めた。「男の子にはよくあること」、確かにそうだろう。誰ひとり、宇田の抱える根深い問題には気付かなかった。