第32話

 宇田が自分の脚を切りつけたのは、最初の大学受験に失敗した頃のことだったのだという。

 どの傷もたいした深さではなく、命はもちろん脚の機能に関わるようなものではなかった。脚の傷そのものより「なぜ彼が自分の脚を傷つけようとしたか」が問題となったのは当然の話だ。

「真輔の両親はすごく優しくて、隣の家で育った俺も一度だって子どもを叱るところを見たことなかったんですよ。でもさすがに突然の自傷行為には驚いて、理由を問い詰めたそうです。でも真輔の口は重くて、やっと答えたと思ったら……」

 ――だって、これはおれの脚じゃないから。

 唐突な告白の意味を、誰ひとりとして理解できるはずはない。真意をさらに問うも、宇田は黙りこんでしまい他には何も言わない。宇田の両親は結局、息子の奇行の原因を手っ取り早く「受験の失敗によるノイローゼ」に求めた。そしてちょうど理学療法士として病院勤務をはじめたばかりの宮脇に助けを求めたのだ。

「医療職に興味があるなら医者以外の道もあるって。要するにそういう話をして欲しかったんだと思います。実際、俺も最初はそのつもりでしたしね」

 だが、ぽつぽつと話を続ける中で、宮脇は宇田の抱える闇が思春期や受験といった一時的なストレスでは説明しきれないことを知ったのだった。

 身体完全同一性障害、という単語を先に口にしたのは宇田だった。本人なりに自分の抱える違和感がなんであるのかを知りたくて、必死に調べた結果たどりついたのがその単語だったようだ。だが、自らの抱える問題に名前がついて、広い世界にいくらかの「お仲間」がいることがわかったところで、たいした救いにはならない。何しろ「お仲間」だろうが医者だろうが、誰も宇田を悩ませる異様な感覚を消し去る方法を教えてくれはしないのだから。

 そうなれば、自分のイメージする肉体と現実を一致させるための方法は、ひとつ。いらない脚を切ることだけ。だがもちろん、そんなものが現代医療の世界で「正当な治療」と認められるはずはない。

 ぼくは段ボールの中の医学書のことを思い出していた。そして「就職する前に数年間の浪人生活を送っていた」という宇田の言葉。その頃の彼がいったい何を目指していたのか、信じたくはないが想像はできる。

「宇田くんは、自分の脚を切るために医者を目指していたんですね」

 医者にいくら頼みこんだところで健康な脚を切ってもらえるはずがない。でも、もしも自分が医者なら?

「馬鹿みたいな話だけど、まだ十六、七のガキだから。本人なりに本気で考えた結果だったんでしょうね。受験に失敗した衝動で自力切断を試みたけど、やっぱり無知な素人が設備も麻酔もなしに自分の脚を切り離すなんて、そうそうできるもんじゃないですよ」

 そう言って宮脇が疲れたように吐いた息には心底の安堵が混ざっていた。もしも宇田が医者になれるほど賢いか、もしくは自分の脚を切断してしまうほど思い切りが良かったならば、とっくの昔に彼の左膝から下は失われてしまっていただろう。家族や周囲の人間にとっては幸運――宇田にとっては多分不幸なのだろうが。

「自傷行為は、そのとき一度だけですか?」

「俺が知る限りはね」

 一度ばれて追及されれば、次はより巧妙に隠すようになる。宇田の危険な試みがそのとき限りで終わったのかはわからないが、ぼくが目にした膝下の傷跡はそう多くない。自力切断に失敗し、数度の浪人を経て外科医への夢が絶たれることで、宇田も「実際に脚を切る」ことが現実的ではないと理解したのかもしれない。

 だが、脚の傷は癒えても、息子の理解不能な行動に動揺した両親とのあいだには埋めることのできない溝が生まれていた。宇田はそれまで以上に自分の殻に閉じこもるようになり、やがて実家を出た。

「親御さんは反対したでしょう。目を離した隙にまた脚を切らないとも限らないんだし」

「真輔は頑固だからね。あと、ご両親も心配すると同時に、真輔をどう扱えばいいかわからなかったんじゃないのかな」

「それは、理解できるような気がします……」

 宇田と両親との関係が、自分と親の関係にぼんやりと重なる。

 事故に遭って以降、父と母がどれほどぼくを心配してくれているかは理解しているつもりだ。でも、だからこそぼくは両親に不安や弱音を率直に告げることはできない。どうせ明るい話はできないのだから、これ以上の心配をかけたくないというのが半分。話したところで、脚を失くしたことのない両親にぼくの気持ちはわからないというあきらめが半分。そうやって心を閉ざしたところで許してもらえるとたかを括っていること自体が、もしかしたら甘えの一種なのかもしれないが。

「いまもたまには実家に顔を出しているみたいだし、一応働いて自活して、あれ以降目立った奇行もないから安心はしてるみたいだ。真輔も親には『あれは一時的なノイローゼだった』で通しているようだし」

 妄想を口にすれば親子間はぎくしゃくする。おかしいと思われる。だったら黙って「なかったことにする」方が表面上の平和は保たれる。だが、宇田の中ではおそらく何も変わっていないのだろう。だから、あんな写真ばかりを集めて、ぼくを見つけて――。

「でも宮脇さんは、宇田くんの脚切断への執着が消えていないと思っていたんですね」

 宮脇はうなずいた。

「素人ながらに調べた限り、あの手の感覚に強弱はあっても完全に消えることはない。家族や世間体のために真輔がなんとか衝動をおさえて普通の生活を送っているのだとしたら、君みたいな人と親しくすることは危険だと思った。それに脚を失って傷ついている土岐津さんだって」

「確かにとことん傷つきました。やっと自分を理解してくれる人が現れたと思ったのに」

 そう言ってぼくはおおげさにため息をついて見せた。

 あれだけ敵対心を持っていたはずの宮脇に対して、気づけばこんな弱みまで打ち明けている。宮脇が宇田に抱いている感情が「放っておけない弟分」へのものなのか、それとも違う種類の――たとえばぼくが宇田を思っていたような――なのかはわからない。ともかく、こうして木陰に座って話をするうちに、ぼくらは宇田真輔という男に翻弄された同類が相哀れんでいる状態になっていたのだろう。

「土岐津さんは『欠損フェチ』を疑ったとき、真輔をなじった?」

「ええ、かなりひどく」

「そのとき、あいつはどんな反応を?」

「何も。なじられっぱなしで帰って行って、それっきりです」

 ぼくがそう言うと宮脇は苦笑したようだった。幼い頃から知る者として「宇田らしい」と思っているのかもしれない。

 

 話を終えて、並んで外来の入っている建物まで戻る途中、ふと思った。

「宇田くんはどうしてるんでしょうね」

 あの日の宇田は、少なくともぼくに対して罪悪感を持っているようだった。だからこそ暴言も暴力も受け入れたのだろう。

 いま宇田はどこで何をしているのか。ぼくが彼とのことを引きずっていたのと同じくらい落ちこんでいればいい、というのはきっと欲張りすぎだ。

 当然ながら宮脇は首を左右に振る。

「知りませんよ。しつこく疑っているようだが、このあいだ偶然出くわすまで何年も会ってなかったし、その後も一度だって。秘密を知る人間なんて鬱陶しいだけだって避けられてる。土岐津さんの方がよっぽど真輔のことを知ってるんじゃないですか」

「ぼくなんて出会ってほんの数ヶ月。それも、もう終わりました」

「それは、本当に真輔とはもう会わないって意味ですか?」

 こりごりです、とぼくは肩をすくめて見せた。

 宮脇は「誤解」と言ったが、宇田が「欠損フェチ」だろうが、BIIDとやらだろうが大差はない。宇田はぼくではなく、欠損した左脚に興味を持っていただけなのだ。

「そう都合良い理解者なんているはずないんですよ。いまのぼくにわざわざ興味を抱く人がいるのだとすれば、宇田くんみたいな『特殊な趣味』の人だけ」

 出会いがあまりにドラマチックだったから――宇田があまりに優しかったから――夢を見すぎてしまった。ぼくがすべきは人に勝手な期待をかけることではなかった。現実を、劣等感を自分のものとして受け入れて、哀れみや好奇の目にも慣れること。

 気づくのが遅すぎたが、高い授業料だったと思うしかない。強がって笑うぼくに、宮脇はぼやき半分に言った。

「土岐津さんがそう思うなら、それが答えなんでしょうね」