第33話

 残暑がようやく和らいだ頃、ぼくは正式に復学した。

 生活が荒れたせいでいっとき崩していた体調は、完全に元通りになるまでに思ったより長い時間がかかった。この体では、ほんの少しの不摂生に大きな代償を払わなければならないことを知ったという意味では、あれもまたいい経験だったのかもしれない。

 誰よりもぼくの復学を喜んでくれたのは両親だった。電話口から聞こえてくる母親の声に涙が混じるのを聞くと、否が応でも怪我して以来の自分の行動を反省してしまう。これ以上は親に負担をかけないよう、規定の一年半で必ずや修士課程を終えて、就職を決めようと意気ごんだ。

 後期は午前中に集中的に講義を入れて、基本的には午後は修士論文用の研究に充てることにした。こうすれば嫌でも朝きちんと起きることになり、生活のペースが整うだろうという算段だ。

 研究室で論文を読んでいると、遅めのランチを終えた学生たちが楽しそうに話しながらやってきた。部屋に入ってくるなり、その中のひとりがぼくの机に歩み寄る。

「土岐津さんの復帰祝いしようって話してたんですけど、どういう店がいいですか?」

「え? お祝い? いいよ、そんなおおげさな」

 やっと学校に戻ったはいいが、将来にはまだまだ問題山積。とても何かを祝うような気分にはなれない。それに、宇田と会わなくなって以来、外食する機会もなくなったぼくは、大学と家を往復するだけの日々を送っている。急に、しかも大勢での会をやると言われても心の準備は難しい。

 せっかくの申し出を断られたと思っているのか、狼狽した四年生の肩越しに、苦言を呈してくるのは本村だ。

「おおげさじゃないだろ。一歩間違えたら死ぬような大怪我からの華麗なる帰還なんだから。それに、ここだけの話だぜ」

 さも重要機密であるかのように低い声で伝えられ、ぼくは苦笑する。「ただ酒」と言われれば喜び勇んでどこにでも顔を出していたのはもう、はるか昔の話だ。

「そんなこと言われたらますます遠慮したくなる。みんな忙しいし、金が余っているわけでもないんだから、気を遣わないでいいよ」

 断る言い訳ができたと喜んだのも一瞬。低い声のままで本村はポンポンとぼくの肩を叩く。

「いいんだって、先生がかなり多めに出してくれるんだから」

 ――どおりでみんな楽しそうなわけだ。スポンサーの出資により主賓たるぼくの飲食代が無料になるのはもちろんとして、他の学生たちも少なめの負担で飲み食いできるなら、全員乗り気にはなるだろう。

 なんだか体良く使われている気もしてくるが、さすがに教授の善意を断るわけにはいかない。心の中でため息を吐きながら、ぼくが首を縦にふると、さっそく後輩たちが店の候補を差し出してくる。

「お店、どういうところがいいですか。和風洋風アジアン……とりあえず見繕ってみました」

 グルメサイトのプリントアウトを手にとって、ぼくは料理や酒の種類なんかよりよっぽど大切な情報を探した。

「……えっと、何か?」

 食い入るように小さな字に見入る姿が奇妙に映ったのかもしれない。問われてぼくは少し迷ったが、どうせいつかは言わなければならないことなので、意を決して告げた。

「えっと、料理はなんでも食えるからこだわらないけど、一点だけ。テーブル席の店にしてもらえる?」

 それだけでは意味が通じない。きょとんとした顔を前に、仕方なしに自分の左膝下をちょんちょんと指で示した。

「ほら、ぼくは脚がこれだから」

 膝を曲げた姿勢は取りづらいし、かといって人前で義足を外したくもない。左脚だけ前に伸ばして長時間座れば腰が痛くなるから、座敷の飲み会はNGだ。だが、そんなことも実際に義足で生活してみなければ想像できないことなのだろう。

「あ、すみません。気が利かなくて」

「いや、そんな謝らなくても。こっちこそ注文が多くて悪いな」

 

 話を終えてしばらくした頃、さりげない素振りで近づいてきた本村が再びささやく。

「ごめんな、さっきの。ああいうの、自分から言うの嫌だろ」

 気遣いをありがたく思う気持ちと、惨めな気持ちを蒸し返されて不快な気持ち。相手に悪気はないのだから恨んではいけないと自分に言い聞かせる。

「いや、いいんだ。言わないと後でお互いしんどくなるし。ぼくは前を向くって決めたから。こういうやりとりもだし、この脚でもやれることはできるだけやっていかなきゃって思ってる」

 さっきまで飲み会すら断るつもりだったことを思えば説得力ゼロだが、本村はそこには突っ込まなかった。服の上からぼくの左膝下をまじまじと眺める。

「見た目はほとんど変わらないけどなあ」

 本人なりに元気付けているつもりなのは間違いない。

 ボトムの裾を長めにすれば、普通に歩いたり椅子に座ったりしている限りは下腿義足の見た目は極めて自然。ただ、どうしたって本物の脚にはかなわないだけで。

 ぼくがつけている義足は平地歩行や階段の上り下りに向いているタイプで、日常動作を行う分には一番スムーズに動く。だが、走ることや激しい動きには向かない。別のタイプの義足を使えば以前のようにフットサルもできると聞いたことがあるが、チームに入れてくれとはとても言い出せそうにない。

 一日のうち何度も、自分はもう「あちら側」には戻れないのだと思い知らされる。でも、こういうことを繰り返し、ぼくはきっと慣れていく。それが「乗り越えた結果」なのか「鈍麻した結果」なのかはわからないけれど。

 作業に戻ろうとして、机の上に置いた本に指先が触れる。

 ネット通販で取り寄せたソフトカバーの本は、珍しい精神の症状について一般向けに書かれた書籍で、その一部に「身体完全同一障害」――BIIDが取り上げられていた。

 宮脇と話をした後で、自分なりに調べてみたが、宇田が患うというその病についての情報は驚くほど少なかった。専門的すぎる学術記事や、中身の薄すぎるネット記事以外でようやく見つけたのがこの本だったが、それすら一般的ではない症状を人々に紹介する意義はともかくとして――ただ「奇妙な病気」への人々の好奇心を駆り立てるだけのものに思えた。もちろんぼくがこの本を買った理由だって好奇心の域は出ない。

 いつだったか宮脇が「自分のイメージする肉体と実際の肉体が一致しない気持ちを一度経験してみたい」と言っていたことをふと思い出す。彼はきっとあのとき、宇田のことを考えていたのだろう。

 でもぼくは、実際に脚を失った人間として、宇田に寄り添いたいとも、宇田の気持ちを理解したいとも思わない。気づかなかっただけで、ぼくたちのあいだには最初から、どうしようもない断絶が横たわっていたのだ。

 

 何を引き換えにしてでも、と願うほど脚が欲しいぼく。

 思い詰めて、自ら切断を試みるほどに脚を邪魔に思っている宇田。

 あまりにもかけ離れたふたりは、決してわかりあえないだろう。ぼくはBIIDのページに貼っていた付箋を外すと、ゴミ箱に投げる。もう二度とそのページを開くことはない。

タイトルとURLをコピーしました