第34話

 時計を見ると、夜八時を回っていた。

 ただでさえ夜型の多い大学生で、しかも卒業年次の学生たちの研究にスパートがかかる時期なので室内にまだ人は多い。だが、慣らし運転中のぼくは今月いっぱいは遅くとも九時前には家に戻るよう決めていた。事実、半日以上の長い時間義足をつけたまま生活するのにはまだ馴染んでおらず、左膝に鈍い痛みもある。

 カバンに荷物を入れたところで、星野梨花がにじりよってきた。

「あの、実は土岐津さんに話があるんです」

 聞かなくたって想像はつく。どうせ、また実験を手伝ってくれという頼みだろう。

 この夏、ひきこもっていた時期を除いてぼくは、ほとんどつきっきりで星野の実験を見てやる羽目になった。指導の結果少しはましになったが、星野は性格的に雑なところがある。さらには理系学生にはあるまじきこととして計算に弱い。そのため試薬の濃度の計算誤りなど日常茶飯事。計算が正しくとも、手技がずさんなせいで頻繁に実験に失敗する。

 職人芸のような緻密さのアイメイクを施すときの半分でいいから実験にも注意して臨んでくれれば――などと口にすればセクハラになるので決して言葉にはしない。本村のいらぬ嫉妬をかうのも不本意だ。

 そんなこんなで最近のぼくは、星野に対しては甘い顔をしすぎず自立を促す方向にシフトしていた。

「計算くらいならみてあげてもいいけど、ぼくもそろそろ自分の実験はじめるから、最初から最後までっていうのはちょっと無理かな」

 やんわりと手伝いを断ろうとすると、彼女はさも心外であるとでも言いたげに首を振った。

「違います。実験の話じゃなくて」

「だったら何?」

「土岐津さん、合コンやりませんか?」

「……は?」

 ぽかんと口を開けたところに、畳みかけてくる。

「二対二で! わたしと、本村さんと……」

「星野さんと本村? そんなの研究室の飲み会と変わらないじゃないか」

 ぼくは遠慮なくうんざりした顔をして見せる。研究室の飲み会ならば出る義理もあるが、合コンなど問題外だ。しかも星野と本村と? 冗談じゃない。

 本村と星野が最近いい感じであることはわかっている。まだ付き合うには至っていないようだが、相思相愛なのは確実だ。なのにいつまでももだもだしているのは、ふたりとも卒業年次で研究が忙しいこと、そして――何かの拍子にぼくが「恋人と別れた」と告げたことを気にしているのかもしれない。

 合コンの話はさらりと断ったつもりで研究室を出ると、なぜだか星野は後をついてきた。そして周囲に人がいないことを確認してから言う。

「あのですね、実は土岐津さんと会ってみたいって子がいるんです。わたしの友達で、文学部の四年なんですけど、すごくいい子なんですよ!」

 余計なお世話の二乗、いや、三乗。ぼくはため息をつく。

「……星野さん、せっかくのお誘いだけど、そういう状況じゃないんだ。これから研究にも本腰入れていかないといけないし、それにほら、ぼくは脚もこんなだし」

「それは考えすぎだと思います! だって普段一緒に研究したり、お昼食べに行ったりしてて、土岐津さんの脚のことなんて誰も気にしてませんよ」

 そっちは気にしなくても、こっちは気にしている。それに、大学で仲間として過ごすのと恋人として付き合うのは全然違う。それこそ、このボトムの下にある義足も、それを外した場所も見せなければいけないのだから――。

「いや、やっぱりいいよ。相手の子にも失礼になるし」

「でも、土岐津さんの脚のこと、言っちゃったんです! それでも会ってみたいって!」

 冗談じゃない、と思った。義足の男をわざわざ紹介してもらおうなんて、まさかその女も切断フェチやBIIDじゃあるまいな。そんな意地の悪いことすら考えて、ぼくは星野の誘いを改めて断るとその場を去った。

 家について義足を外した瞬間を見計ったかのように電話が鳴った。発信者名は本村。嫌々ながら通話ボタンを押すと、すぐに不機嫌そうな声が聞こえてくる。

「おい、土岐津。せっかくの梨花ちゃんからの誘いを愛想なく断ったらしいじゃないか。飲み会行けるなら合コンだって平気だろ」

 そこでぼくは、合コン計画の真の首謀者が誰だったかを察した。

「星野さんと飲みたいなら、人をだしにしないでふたりで勝手に行けばいいだろう」

「あのさ、そういうんじゃないから。普通に梨花ちゃんの友達が彼氏欲しがってて、誰か紹介してくれって頼んできたんだって。で、実験指導してくれたりして常日頃から『優しくて頼りになる』と思ってた土岐津先輩を紹介したいって、それだけだよ。すっげえ普通の話」

 苛立ちまじりだった本村の声色に、だんだん呆れの色が濃くなっていく。ぼくはなんとか返す言葉を絞り出した。

「……ぼくが脚切った後、誰とも会いたくないくらい落ち込んでたこと知ってるだろ。いいかげん前向かなきゃってなんとか大学に戻ったけど、まだ余裕ないんだよ。ちょっとしたことで傷ついたりへこんだりして、そのたびにまた引きこもりたくなる。とても恋愛なんて考えられない」

 だが、本村は引かなかった。

「それ、前半は本心だけど、後半は違うだろ。このあいだ大学しばらく休んでたの、前言ってた彼女と別れて落ち込んでたんじゃないか」

「でも……あれも元はといえば脚のせいで……」

「まあ、確かにそういう奴もいるのかもしれないけど、脚なんか気にしない子も絶対いるって。義足でも車椅子でも恋愛してる奴も結婚してる奴もいくらだっているんだから、いつまでも辛気臭い顔しないでさ。恋愛の傷は恋愛で癒すのが一番だと思うぜ」

 確かにそれは正論ではある。宇田とは上手くいかなかったが、もし他の誰かがいまのぼくを受け入れてくれるならば、この心の穴を埋めてくれるならば――。

「恋愛の傷は、恋愛で?」

「そうそう、俺なんか両脚あっても何回振られてるかわかんないんだし。人生トライアンドエラーだって。第一おまえさ、事故の前は合コンでマッチングしなかったくらいで落ち込んでたか?」

「いや……」

 本村の言葉はあまりに能天気すぎる。トライアンドエラーなどと言われたところで、そんなに簡単に割り切ることはできない。かつてのぼくなら「縁がなかった」で軽く流してしまうことを、この脚のせいだと深刻に受け止めてしまう。それが脚を失うということなのだ。

 でも、これもまた他の数多と同様に、ぼくにとって必要な日常を取り戻すためのステップであることは間違いない。今後この脚で生きていく中で恋愛に失敗することが何度もあるならば、その痛みにも早く慣れておくべきなのではないか。

 前向きだか後ろ向きだかわからない気持ち、そして本村のしつこさに負けたのも理由のひとつ。ぼくは一晩悩んだ結果、合コンに参加することにした。

 

 約束の日は、朝からずっと緊張していた。

 スペインバル風居酒屋の半個室で、テーブルのこちら側にぼくと本村、向かいに星野ともうひとりの女子が並ぶ。

「土岐津さん、こちらがさっちゃん。文学部の四年で、来年の四月からは銀行員だっけ?」

「卒業できれば、だけどね。卒論書き上がるか心配で」

 そう言って笑った女学生は、戸沢とざわ幸乃さちのと名乗った。笑うと右頬にだけえくぼができるのを可愛らしいと思ったのが第一印象。おっとりとした雰囲気で感じが良く、喋りすぎず穏やかな彼女は少しだけ宇田と似ているような気がした。

 誰もが気を遣ったのか、その場で脚の話は出なかった。大学の話、趣味の話、最近流行りのコンビニスイーツの話や、開業したばかりのショッピングビルの話。女の子と話すのは久しぶりで、酔いのせいもあってかぼくはふわふわと機嫌が良くなり、よく喋りよく笑った。そうしている限りは左脚のことなど忘れていられた。

 帰り、わざとらしく本村と星野はどこかへ消え、ぼくは駅までの道を幸乃とふたりで歩くことになった。

「梨花ちゃんたち、いなくなっちゃいましたね」

 照れたように笑いながら、幸乃は周囲をきょろきょろと見回す。そんな彼女をみていると、つられてこちらも恥ずかしくなって、無理やりに話題を探す。

「最初からそれが目的だったんじゃないかな。本村はもともと星野さんに好意を持ってるんだよ。ふたりとも論文書けるまではって遠慮してるみたいだけど、みてるとまどろっこしいたらないよ」

 横目で幸乃を見る。宇田よりもずっと背が低い。華奢で、体も肌も柔らかそうで、彼のようなほの暗い雰囲気はない。スキニーパンツに覆われて見えないが、その下にある左脚もきっと細くてきれいだろう。もちろん膝下にためらい傷なんて存在しない。

 ぼくがそんなことを考えているなどとはつゆ知らず、幸乃は微笑んだ。

「ふふ、梨花ちゃんも本村さんのこと、面白くて素敵な先輩がいるんだって言ってましたよ。うちのゼミは女ばっかりだから羨ましい言ったら、こんなチャンスをくれて」

「チャンス……」

 幸乃は酒には強くないのだと言って、店ではずっと甘いサワーをちびちびと口に運んでいた。たいした量を飲んでいないのに頬がピンク色に染まっている。はにかむような笑顔はかわいらしくて、こんな子が一緒にいてくれたら、嫌なことすべて忘れたままでいられるのかもしれない。

 ぼくはちらりと自分の左脚を見て――それから幸乃の顔を見ないままで言う。

「よかったら、今度はふたりでご飯でもいく?」