第35話

 合コンという名目で実質一対一で引き合わされた次の週に、ぼくは戸沢幸乃とふたりきりで食事に出かけた。次を誘うのはもっと簡単で、二度目にふたりで会ったときにはすっかり打ち解けた雰囲気になっていた。

 幸乃のおすすめだというベトナム料理店は、テーブルにはビニールのテーブルクロス、壁にたくさんのメニューが貼ってあるお洒落とはほど遠い店。もっと女の子っぽいチョイスを想像していたので意外だったが、本場出身の料理人が作る屋台風料理は絶品だった。幸乃はベトナムの名産品であるという蓮茶を頼み、ぼくはビール。とはいえ義足になってからは足下が不安なので量は控えめだ。かつては酒を飲まない相手と過ごすことにつまらなさを感じていたが、いまではこのくらいのテンションを心地よく感じる。

 定番の生春巻きやパパイヤのサラダに、ぼくにとっては馴染みのないバインクォン。さらには怖いもの見たさで爪が生々しい鶏足の炭火焼きなど、ひとしきり食べて手が止まってきたところで幸乃がカバンから一枚の紙切れを取り出した。映画館の待合スペースによく置いてある、作品宣伝用のフライヤーだ。

 そういえば彼女は映画が好きで、シネコン、ミニシアターを問わず月に数度は劇場に足を運ぶのだと言っていた。

「面白そうな映画があるんですけど、もし良かったら土曜日にでもどうですか」

「えっ、映画?」

 さりげない調子で誘われたが、ぼくは即答できなかった。聞き返した声には明らかに戸惑いの色がにじんでいただろう。

 幸乃の色白の顔をふっと不安そうな影が覆った。だがそれも一瞬のことで、すぐに気を取り直したように笑う。

「ごめんなさい、急に誘われても困りますよね。映画なんて人によって全然趣味も違うのに! えっと、だったら映画じゃなくて……あ、いや、でもやっぱりいいです」

 気丈な言葉が次第にしどろもどろに、そして小さく消えていくのを聞きながら自分の態度が彼女を傷つけそうになっていることに気づく。ぼくはあわてて首を左右に振った。

「あ、違う違う。映画が嫌なんじゃなくて、むしろ好きなんだけど」

 好き、というのはややおおげさで、自分で観に行ってのは話題のハリウッド大作くらいだし、学部時代に付き合っていた彼女が誘ってくるのはイケメン俳優が出演する恋愛映画ばかりだった。内容にはまったく興味が持てなかったけれど、手垢のついた展開にも素直に笑ったり泣いたりする彼女を見るのは面白かった。幸乃と映画を観ることも。嫌でもなんでもない。

 ただ、今のぼくに映画館——特に休日の映画館はリスクが大きい。

「ほら、映画館ってけっこう足下が狭いだろ。長い時間座ってると脚が痛くなっちゃうんだ」

 誤解させるのもしのびなくて、ぼくは種明かしをした。

 床に座るよりは椅子の方がずっと楽。しかし椅子ならなんでも良いわけではなく、狭い場所で膝を深く曲げて座ると義足のソケットのふちがちょうど膝裏に当たるのだ。短い時間ならばたいした問題はないが、二時間もその姿勢でいれば痛みは耐えがたくなるだろう。休日の映画館は混み合うだろうから、隣が空席で脚を伸ばせる可能性も低い。

 決して幸乃との外出を敬遠しているわけではない。むしろ大歓迎だ。夜間や休日にひとりでいると余計なことばかり考えて暗くなりがちだが、最近は電話やチャットが寂しさを埋めてくれる。こちらの都合を無視して場をセッティングした本村や星野の強引さは多少苦々しく思っているが、その結果には満足しているのだ。

 ドラマティックな恋愛なんて、そうそうあるものではない。雨の日に助けてくれた運命の人、なんて馬鹿げた妄想はもう捨てた。友達に紹介されて、何度かデートしながら互いを見定めて、そのうち何となく好意が生まれる。リアルな恋とは案外こういうものなのかもしれない。

 

「ごめんなさい、知らなくて」

 映画館の話題はセンシティブだと思ったのか、幸乃はぼくの目を見て謝った。でも、こんなこと当事者以外は知らなくて当然だ。ぼくは彼女への好感を深めた。気まずい顔でやり過ごすのではなく正面きって「ごめんなさい」と言われるのはむしろ気持ちいい。

「こっちこそ、せっかく気をつかって誘ってくれたのに、ごめん」

 つられて謝ると、なぜだか幸乃は不満そうに顔をしかめた。

「なんで土岐津さんが謝るんですか」

 怒ったように詰め寄られる、こういうパターンは初めてだ。

「……いや、行ける場所に制限があるから申し訳ないなと思って」

「そんなの特別な話じゃないです。私、納豆が好物なんですけど、前に梨花ちゃんを納豆専門店に誘ったら、この世の終わりみたいな顔されちゃって」

 映画の話——いや、義足の話から突如、納豆専門店。一瞬面食らったが、そういえば星野は納豆が大の苦手だった。学食で数メートル離れた場所に納豆を食べている人がいるのを匂いだけで察知して、ものすごい勢いで逃げていったのはいつだったか。ヘルシーな食べ物をこよなく愛す彼女だが、納豆だけはどうしても受け入れられないのだという。

「星野さん、納豆駄目だもんな」

 そう、と普段のふわふわした物腰からは意外なほど力強く幸乃はうなずく。

「だから、御座敷が駄目とか、映画館行けないとかも、納豆が駄目っていうのとそんなには変わらないと思うんです。もちろん土岐津さんが大きな怪我をして、いまもたいへんな思いをしてるのは別の話なんで、あくまで周囲の人間にとっては、ってことですが」

「周囲にとっては……?」

「そう。えっと……だから」

 勢いはあるが、熱心に話しているうちに自分でも言いたいことがよくわからなくなってきたのかもしれない。難しい顔をしながら、それでも言葉は紡がれる。

「私も、多分梨花ちゃんたちも土岐津さんの脚をそんなには気にしてないし、嫌なことや駄目なことは遠慮することないって……あ、ごめんなさい。わかったようなこと言っちゃって」

 幸乃はいい子だ、としみじみ思った。ふんわりとした雰囲気で癒してくれる一方で、文学を学んでいるだけあって思いを言葉にすることが上手い。寡黙で口下手な宇田とは別のやり方で、ぼくの心を楽にしてくれる。

「ありがとう。じゃあ幸乃ちゃんには遠慮なく苦手なものについて話すことにするよ」

 あまり雰囲気が深刻になりすぎるのも気まずいので、あえて茶化すように言うと、彼女も頬をゆるめていたずらっぽく笑う。

「じゃあ、何なら楽ですか?」

「え?」

「この映画、実はそこまで観たいってわけじゃないんです。私の勝手な思い込みで、歩くより座ってる方がいいのかなって思って映画に誘っただけで」

 本当はただ一緒にどこかへ行けたらいいなと思って。はにかんだ顔で言われるとこっちも恥ずかしくなる。しかし幸乃がわからないなりに一生懸命ぼくにとって楽な方法を考えてくれたのだと思うと悪い気はしなかった。

「これは日常歩行用の義足だから激しい運動は無理だし、大きな傾斜や階段がたくさんある場所も苦手だけど、平坦な場所を歩くだけならほとんど問題ないんだ」

 するとしばらく考えてから幸乃は言った。

「じゃあ、動物園に行きませんか? 好きでよく行くところがあるんですけど、

あまり広くなくて坂もないから歩き回っても負担は少ないと思います。あ、ただ規模が小さいだけあって動物の種類は少ないけど……」

 そういえば宇田と外で会うときはいつも、食事や買い物などぼくの外出リハビリに付き合ってもらうばかりだった。映画とか動物園とか、そういういかにもデートらしい場所には一度も行かないままだった。それどころか宇田の行きたい場所を聞いたことすらなかった気がする。

 もちろん宇田が興味を持っていたのは「ぼくが片脚であること」それ自体だから、デートらしいとからしくないとか、そもそも気にしていなかっただろう。でも、もしぼくが少しでも宇田のことを考えて、宇田を知ろうとしていたら——もしかしたらぼくらの関係は少しは変わっていたのだろうか。