第36話

 金曜の帰りは、嬉しさと不安の入り混じった何ともいえない気分だった。

 その日の昼間、こそこそと近寄ってきた星野から「さっちゃんとうまくいってるみたいですね」と小声でからかわれた。嫌ではない。ただ、大丈夫だという確信が持てないのだ。戸沢幸乃に対する好意が育ちつつある反面で、ふとした拍子に本当にこのまま進んでもいいのだろうかという不安——いや、疑問も湧き上がる。

 ネガティブな感情の原因が何なのかもよくわからない。まだ次の恋愛に進む準備ができていないのか、それとも期待が裏切られることを恐れているからなのか。動物園だって、行けば楽しいに決まっている。だが、一日を終え疲れた頭と体で明日のことを考えれば、面倒だという気持ちも確かだ。

 電車を降りて、夕食をどうしようと考える。

 駅前の一番便利な場所にあるコンビニエンスストアを使えなくなった——もちろん理由は、宇田がそこにいるかもしれないからだ——ので、水や食べ物を買うときは帰り道を迂回して別のチェーンのコンビニに行く、もしくはスーパーマーケットを使うようにしていた。

 昨日はスーパーマーケットのからあげ丼、一昨日は半額のパック寿司。その前はコンビニのまぜそば。でも、やっぱり品揃えといい味といい、駅近くにあるコンビニのチェーンの弁当が頭ひとつ抜けている。宇田がいるかいないかが外からでも簡単にわかればいいのにな、などとあり得ないことを考えながら、やっぱり今日もスーパーマーケットに寄ることにしようと決めた。

 そのとき、背後から呼び止められた気がした。

「あの、こんばんは」

 控えめな様子だし名前を口にしない。おそらくキャッチセールスか宗教だろうと思いながらも、声に聞き覚えがある気がしたのでちらりと背後をうかがった。

「えっと」

 だが、顔を見てもイメージは曖昧だ。どこかで見たような顔だが、はっきりと思い出すことができない。ロックバンドのロゴ入りの派手な色のTシャツ、黒いぴったりとしたスキニーパンツ。長い髪を垂らしているこんな女の子、知り合いにいただろうか。

 すると、こちらの戸惑いに気づいたのか彼女は長い髪を手でひとつに束ねながら笑った。

「もしかして、いつも髪くくって制服だからわかりません? ほら、そこの」

 反対の手で指さす先には例のコンビニエンスストア。そこでぼくも彼女が何者かを理解した。

「ああ、コンビニの!」

「そうです、巻です、巻。えっと、お客さんは……」

 そういえば一度もこちらから名乗ったことはなかった。

 ぼくにとって巻はあくまで宇田を介して多少の関わりをもっただけの女性。宇田との関係が断絶したいま、わざわざ自己紹介して彼女との関係を深める意味などないというのが本音だ。でも、この状態で名前を告げないのはあまりに非常識だ。

「ぼくは、土岐津っていいます」

 巻が手を離すと長い髪の毛がさらさらと肩にこぼれる。女の子というのは髪型や服装やちょっとした化粧の違いで別人のように印象が変わる。男からすればまるで魔法のようだ。ぼんやりとそんなことを思った。

「最近買い物に来ないから、どこかに引っ越しちゃったのかと思ってました」

 まるきり他意のなさそうな、あっけらかんとした調子で言われるとむしろ後ろめたさが増す。彼女は宇田とぼくを親しい友人と思っているはずだが、ぼくらがいまでは音信不通であることについて何も聞いていないのだろうか。いや、おとなしい宇田のことだから適当に答えを濁したのかもしれない。

「最近大学が忙しくて……」

 言い訳は陳腐だ。だって、大学が忙しいことと駅を出てすぐの場所にある二十四時間営業のコンビニに行かないことのあいだには何の関係もない。それどころか逆相関がありそうな気すらする。

「へえ、大学生なんだ。宇田さんの友達だから、社会人かと思ってました」

 突っ込まれたら持たないなと不安に思っていたが、細かいことを気にしないたちなのか、巻は素直にうなずく。

 そもそも彼女と立ち話をするような筋合いもないのだ。世の中によくいる、ちょっとでも知った人を見かけると反射のように声を掛けるタイプ。巻もそういう人間なのかもしれないが、ぼくにその気持ちはわからない。

「これからバイトですか」

 決して巻のシフトに興味があるわけではなかった。ただ。バイトという単語を口にすることで彼女が出勤を急ぐ気になるかもしれないと期待した。しかし、どうやらぼくの試みは逆効果だったようだ。ちょうど良い愚痴のこぼし相手が見つかったとばかりに、巻はため息を吐いた。

「そうなんです。本当はオフの予定だったんだけど、どうしてもシフト埋まらないからって頼まれて。最近こういうこと多いんですよねえ。人が足りないなら増やせばいいじゃんって思うんですけど、思ったようにはバイトも集まらないみたいで」

「……でもそれは、前から」

 じゃないか。と言いそうになって、ぼくはあわてて口をつぐんだ。コンビニの店長だかオーナーだかのシフト管理が下手なせいで、しょっちゅう迷惑をかけられていたのは宇田だ。下手なことを言えば、気まずい話題を呼び起こしてしまう。

 案の定、巻の意識を宇田からそらしたままでおくのは無理だった。

「そうなんですよねえ。でもほら宇田さんもいないから、どこの店舗も絶望的に人が足りなくて。時間の自由がきくからやってるバイトなのに、こんな状況が続くなら、私もやめちゃうかもしれないな……」

 ぼくは脚を止めた。

 巻がアルバイトに忙殺されているとか、巻がコンビニをやめるかもしれないとか、そんなことはどうでもいい。聞き捨てならないのは——。

「……いない?」

 誰が、を口にしなかったのが精一杯の自制心だが、もちろん何の役には立たない。巻はきょとんとした表情を向けてくる。

「あれ、聞いてません?」

 友達のくせになぜ知らないのか、と言いたげな視線が痛い。もしやぼくとのことがきっかけで宇田はアルバイトをやめたのだろうか。話せば話すほど墓穴を掘ることはわかっているのに、好奇心には逆らえない。

「えっと、ほら最近忙しいから……」

 またもや理由になっているのか怪しいことをしどろもどろに口にすると、巻は気の毒そうな顔をした。

「宇田さん、怪我したらしいですよ」

 ドクンと、心臓が破裂しそうに脈打つ。

「怪我!? どこを!? ひどいの?」

 どこ、とわざわざ聞くのも無意味に思えるくらい、その時点でぼくの頭にはすでに片脚を失った宇田のイメージが生々しく浮かんでいた。だが巻は首をかしげるばかりだ。

「さあ……そこまでは。私も直接やりとりしてるわけじゃないから。怪我でしばらく立ち仕事はできないらしいってオーナーに聞きましたよ。お見舞いに行こうかって聞いたら、入院はしてないって言ってたみたいだから、そこまで大事ではないと思いますけど。……なんだ、もっと詳しいこと知ってるかと思ったのに」

 そこでようやく、巻がぼくに声をかけたのは宇田の容態を聞きたかったからなのだと理解した。親しい友人であるぼくならば、いまの彼の状況を知っているに違いないと思っていたのだ。だが実際は、彼が怪我をしたことすら聞いてはいない。一気に巻の興味が削がれていくのを感じた。

「ごめん、知らなくて」

 ぼくが宇田の容態を知らないからといって謝るような必要はないのだが、彼女の期待を裏切ったことが申し訳なくて思わずそう言ってしまった。

「土岐津さんが忙しいって知ってるなら、遠慮して連絡控えてるのかもしれませんね。宇田さんそういうとこ気にしそうだし」

 もしお見舞いに行くことがあれば、よろしく伝えてくださいね。巻はそう言うと、聞きたいことは聞いたという爽やかな表情でコンビニに向かって立ち去った。

 

 一方、取り残されたぼくの心境は穏やかではない。

 いくら宇田が自身の脚の切断願望を抱えているからといって、怪我イコール切断と考えるのは短絡的すぎる。普通に生活していれば怪我をすることなんていくらだってあるのだ。転んだとか、どこかから落ちたとか、それこそぼくのように車に接触されたとか——。

 そんなふうにいくつもの可能性を考えて、でもぼくには宇田の怪我の原因は、彼が自ら脚を傷つけたからだとしか思えなかった。