第37話

「ほら、あのカピバラぐっすり眠ってる。かわいい!」

 はしゃいだ声は近くから聞こえているはずなのに、遠い。視界に入っている巨大なネズミのような動物の姿にも焦点を合わせることができずに、ただ虚空を眺めていた。

「……土岐津さん?」

 返事がないことを怪訝に思ったのであろう幸乃に名前を呼ばれてはっとする。

「あ、ごめん」

 ぼんやりしていることを気取られるのはまずい。だって今日は幸乃との初めてのデートらしいデート、昼前に待ち合わせて一緒にランチを食べてから郊外の動物園にやって来たのだ。

 男女の関係において初デートというのがどれほど重要かは承知している。せっかくこれまで好印象を与えることに成功しているのに、今日しくじれば何もかも台なしになってしまう可能性すらある。ぼくはあわてて意識を引き戻して、柵の中のカピバラを指さした。

「本当だ、かわいいね。あっちのは泳いでる」

 一頭は木陰でのんびり昼寝を楽しんでいるが、もう一頭は池の中。丸っこくどっしりとした体と間の抜けた顔からは意外に思えるくらいすいすいと水の中を動いている。

「そういえば冬には温泉に入るって話も聞いたことあるし、カピバラって水が好きなのかな」

 しかし、急に饒舌になるのは後ろめたさの証拠。そして当然ながら女の子はこの手の機微には敏感だ。浮かんでいるのが怒りではなく心配の表情であるのは幸いなのかもしれない。

「どうしたんですか? なんかぼーっとしてる」

 聞かれたところで、正直に答えられるはずもない。

 昨日の夜はなかなか眠れなかった。デート前夜の不安と興奮のせいではない。そんなものすべて、巻から聞いた話のせいで飛んでいってしまった。

 家に帰ろうと歩いていたはずなのに、ぼくの足はいつしか宇田のマンションへ向かっていた。あと二ブロックで着く、というところでなんとか思いとどまったが、本当は宇田の様子が気になってしかたなかった。

 だが、ここで踏み外せば再び何もかもを失ってしまう。宇田とのことは高い勉強代だったと思い切って、幸乃みたいないい子と出会うこともできた。ようやく手に入りそうな平穏を投げ捨てて、脚の切断にしか興味がないような男にこだわり続ける——そんなの、ありえない。

 宇田はぼくに隠しごとをしたまま離れていった。そのせいで未練のような、不完全燃焼な気持ちが心に残っているのだろう。でも宇田との関係は毒だ。彼にこだわればこだわるだけ、ぼくが求める「普通」の生活、「普通」の人生とは遠ざかっていくだろう。だから、いまは幸乃との関係に集中すべきなのだ。

「ごめん、ちょっと昨日の実験のこと考えてて。久しぶりで感覚が戻ってないのか、くだらないところで失敗しちゃってさ」

 巻についたのと同様の低レベルな嘘だが、幸乃はほっとしたように笑顔を浮かべた。

「土岐津さんって、本当に真面目で研究熱心ですよね」

「そんなことないよ。ただでさえ休学で一年遅れてるから、もう絶対留年できないって焦ってるだけで」

「理系の人ってすごいですよね。わたしの周囲は、適当に本読んで文字数埋めれば卒業できるたかをくくってるような人も多いし。土岐津さんとか梨花ちゃん見てるとすごいなって……」

 話していてたまに思うのが、幸乃は「理系大学院生」という存在にやや過大に夢を見ているのかもしれないということ。実際のところは文系にも真面目な学生はいるし、理系にも怠けた学生はいる。属性だけで下駄を履かされた評価に戸惑いはあるが、そのおかげでちょっとした嘘が受け入れられるのはありがたい。

「でも今日は実験のことは忘れなきゃね。次はどのエリアに行く?」

 忘れたいのは「実験」ではなく「宇田」。心の中で自分に言い聞かせながら園内マップを広げると、幸乃がうかがうようにぼくの顔をのぞきこんできた。

「……疲れてるなら切り上げます? メインはもう大体見ちゃったし」

「え、いいよ」

 こういうとき、女の子が本当は何を考えているのかの判断は難しい。気づかっているように見えて実は拗ねているということも十分ありうる。ぼくは反射的に疲れを否定して動物園デートの継続を主張した。

 だが幸乃は空に目をやり、不安そうな顔を見せる。

「さっきから思ってたんですけど、あっちの方ちょっと暗い雲があるんですよね。天気が崩れるかもしれませんよ」

 そういう意味だったのか。つられたように西の空を見ると、確かに暗い。天気予報は確か終日晴れだったが、この調子だとそのうちここまで雨雲がやってくるかもしれない。

「そうだね。確かに雨が降りそうだ」

 一緒にいると、考えごとをして幸乃に不審がられてしまうかもしれない。デートをここで切り上げようという提案自体はありがたいものだったが、同時にぼくの心を不安が覆う。ひとりになったら、また宇田のことを考えてしまう。宇田はなぜ怪我をして、いまはどのような状態にあるのか。彼の様子を気にして今度こそ本当にマンションまで行ってしまうかもしれない。それは地獄への入り口なのに。

 ——ひとりになるのが怖い。

 凍りついたように動きを止めたぼくを、不思議そうに幸乃が見る。

「どうしたんですか?」

「いや……ひとりになるのが嫌だなって思った」

 それはぼくにとっては、ふとこぼれた本音。下心などかけらもない言葉だった。しかしおそらく幸乃には別の意味があるように響いたのだろう。彼女は一瞬丸く目を見開いて——それからはにかんだように微笑んで首を縦に振った。

「じゃあ、うちに寄って行きます?」

 思いもよらない展開だが、もちろん断る理由はなかった。

 

 途中の電車、そして幸乃の家まで歩くあいだの雰囲気は奇妙だった。明らかにふたりとも緊張していて、それをごまかすように脈絡のないことを饒舌に話したかと思えば、ふつと話を止めて黙り込んだりすることを繰り返した。

 正直言ってすごく緊張していた。脚を切って以来女の子の家に行くのは初めて。昔のぼくならば最初のデートの日からあらぬ妄想で頭をいっぱいにしていただろうが、いまは違う。もっと用心深く——いや、臆病になった。しかも昨夕からは宇田のことで頭がいっぱいで、幸乃とこういう展開になろうとは夢にも思っていなかったのだ。

 とはいえ、いざ部屋に誘われれば本能的な期待に胸は高鳴る。

 幸乃だって子どもではないのだから「そういう意味」でぼくを誘ったことは間違いない。もう少し心や体の準備を整えたかった気もするけれど、こういう機会がなければ自分から誘う勇気は出なかっただろう。だからきっとこれは天啓なのだ。いろいろなことが頭をよぎった。

 タイル張りの外壁のマンションは、いかにも女の子のひとり暮らしらしくセキュリティがしっかりしている。宇田の古いマンションとはまったく異なる、新しく明るい雰囲気の建物に入り、一緒にエレベーターに乗った。

「どうぞ、上がってください」

 真新しいスリッパを出されて、ぼくはひるんだ。かかとが自由になるタイプのスリッパが歩いても脱げないのは、足や足指の細かな動きあってのことだ。義足でスリッパを履いたところで、一歩進んだ時点ですぽんと抜けて飛んでいってしまう。

「ごめん、左はちょっと難しくて」

 言い訳をして、右だけスリッパを履くことにした。義足は汗をかかないので、スリッパなしで部屋に上がったところで、汗で汚れた靴下で床を汚す心配はない。

「え? そういうつもりじゃなくて……、気にしないでください!」

 良かれと思って準備してくれたスリッパにケチをつけてしまったようで気まずかったが、それはきっと幸乃も同じだろう。

 

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