第38話

 ナンセンスだとわかっていても、宇田の殺風景な部屋を訪れたときのことを思い出し、重ねてしまう。そしてすぐに比較の意味すらないことに気づく。そのくらい、宇田の部屋と幸乃の部屋は何もかもが違っていた。

 上がってすぐのキッチンには、限られたスペースを工夫して食器や調理用具、調味料などが所狭しと並んでいる。ドアを開けた先は七畳程度の居室で壁に沿うようにしてベッド、テレビ、本棚、そして真ん中にはローテーブル。

 北欧風というのか、家具は白っぽい材質のもので統一されていてカーテンやベッドリネンの色も明るい。そこはテレビや雑誌で見かけるような、非の打ちどころのない「女の子の部屋」だった。

 掃除が行き届いているという点は宇田の部屋と同じだ。しかしこの部屋は清潔な中にもしっかりとした生活感が漂っている。ここでちゃんと日々暮らし、他人を招くことも想定したあたたかさが伝わってきた。

「すごい、きれいにしてるんだね」

 部屋を見回してつぶやくと、幸乃が照れたように笑う。

「普段は散らかってることもあるし、タイミングが良かったんですよ。……あ、飲み物はコーヒーと紅茶と日本茶どれがいいですか? 土岐津さんはどこか適当に座っててください」

「じゃあ、コーヒーお願いできるかな」

「わかりました!」

 彼女は冷蔵庫の浄水ポットから、電気ケトルに水を注ぐ。それからコーヒー豆を取り出して縦長のティーポットのような器具にセットした。見慣れないそれが興味深くて、初めての部屋で座る位置を決めかねていたこともあり、ぼくはコーヒーを淹れる様子を間近で見せてもらうことにした。

 こじんまりとした部屋で、床に座るのを避ければ居場所がベッドの上になるのは間違いなく——ぼくはまだ、そこまで踏み込むべきかどうか決めかねていたのかもしれない。

「これでコーヒー淹れるの? ティーポットみたいだけど」

「フレンチプレスっていうんですよ。ドリップとはちょっと味の出方が違うけど、正真正銘コーヒー用のポット。私はこれで淹れたの、けっこう好きなんです」

 ぼくが知るコーヒーといえば、インスタントもしくはカップやポットの上に豆を入れたドリッパーをセットして湯を注ぐもの。だが幸乃曰く、この世の中にはドリップ式の他にもフレンチプレスに代表されるプレス式、専用器具をコンロに掛けるイタリア式、そのほかにもベトナム式やらトルコ式やら、いろいろなコーヒーの淹れ方があるらしい。

 意外と凝り性な彼女のうんちくを聞きながら、ぼくはコーヒーが出来あがるまでずっとキッチンにいた。

 

 湯気を立てるカップを手に部屋に向かうところで幸乃はぼくが座らなかった理由に気づいたようだった。彼女は課題やパソコン作業もローテーブルで行うため、この部屋には椅子というものがないのだという。

「ごめんなさい。うち椅子ないからそこ座ってください。あ、高さが足りなければクッションいります?」

 ベッドを指されて、他に場所もないので腰を下ろす。すると次は幸乃が、ぼくの隣に座るべきか離れて床に座るべきか迷うように視線を泳がせた。

 恋愛のはじまり、「最初のセックス」ってこんな感じだな、と頭の隅で考える。そう経験豊富な方ではないけれど、前の彼女ともその前の彼女とも最初のときはこういう、くすぐったい気まずさがあった。駆け引きも計算もないままに、何かに憑りつかれたように、魔法にかかったように触れあったのは多分、宇田だけ。

「隣に座っていいですか?」

 再び頭をもたげた未練がましい考えは、幸乃のその言葉でシャボン玉のようにぱちんとはじける。

「うん、もちろん……」

 意外なほど積極的な彼女に対してどうすべきか、思わず腰を浮かして少し右に避ける。すると幸乃も遠慮したように距離をはかってベッドの縁に腰掛けた。その間およそ三十センチメートルといったところ。香ばしいコーヒーの香りのおかげで彼女の甘いにおいがかき消され、少しは平常心を保つことができた。

「……土岐津さんの前の彼女って、どんな人だったんですか?」

 やがて幸乃がおずおずと口を開いた。こんなに直接的にぼくの過去の恋愛関係について質問されたのは多分はじめてだ。

「どんなって、普通だよ。普通の子」

 当たり障りのなさすぎる答えは、どうやら十分ではなかったらしい。普通じゃわかんないですよ、と苦笑してから彼女は質問を続ける。

「なんで別れちゃったんですか? 土岐津さん優しいし、喧嘩とかしなさそうなのに」

「彼女が学部卒業して就職したのが地方だったから遠距離は無理だって。こっちもしがない院生だから、まめに会いに行くとか無理だし。そうじゃなくてもあれから半年で事故に遭って、その後しばらくふさぎ込んでたから……どこかで別れてたんじゃないかな」

 ぼくの言葉に、少しだけ幸乃の表情が暗くなった気がした。膝に置いたマグカップを両手で包み込んだまま黙って——それから彼女は再び口を開く。

「学部時代の彼女が『直前』ですか? 夏くらいに付き合ってたって人は違うんですか?」

「……え」

 彼女はぼくが事故の話をしたことに顔を曇らせたのだとばかり思っていたが、どうやらそれは勘違いだった。

 追及されて、自分が悪意なしに宇田の話を避けていたことに気づいた。いま思えば滑稽だが、本村や星野にあれだけ「付き合いはじめの彼女」についてのろけてしまったのだから、幸乃に話が伝わっているのも当然のことだった。

 隠したいのではなく、思い出したくないから。目を背けたいから。この場で宇田のことを考えれば考えるほど身動きが取れなくなりそうだ。しかし当然、そんな事情は幸乃に伝わらない。

「紹介してもらう前に……すごく幸せそうだったのに、別れちゃったらしいって聞いたんですよね。私は土岐津さんのこと好きになりそうっていうか、好きですけど、もしかしたら土岐津さんはまだその人のこと忘れられないのかなって思うこともあって」

 不安そうな、寂しそうな表情をされると心が痛んだ。

 幸乃は本人なりにずっと気を遣って、ぼくの事故のことも脚のことも彼女なりに受け入れようと努力して接してくれている。なのにぼくは宇田のことばかり考えて、目の前にいる幸乃とすでに終わった宇田とのことを天秤にかけるような真似ばかりしている。「雰囲気」「寂しさ」「欲望」すべてに流されるようにここまでやってきて、そのくせまだ往生際悪く迷っているのだ。

 ここで彼女の手に触れれば、肩を抱き寄せればキスしたくなるだろう。

 キスをすれば、止まらなくなる。

 そしてセックスをすればもう、引き返すことはできない。彼女はきっと行為に明確な意味を求める。ぼくは「好きだ」とか「付き合って欲しい」だとか月並みな言葉をかけて、幸乃と恋人になるしかない。

 それから先は、普通のカップルみたいにデートしたり、たまには喧嘩もして。何かのきっかけで別れるかもしれないし、そのまま付き合い続けていればいつしか結婚するようなこともあるかもしれない。失った片脚は永遠に戻らないが、それでもかつて思い描いた人生を、大きく欠くことなしに歩んでいけるのかもしれない。何度も繰り返した妄想はひどく甘いのに、その裏側には得体のしれない恐怖がべっとりと張り付いている。

 ぼくは迷いを振り切るように腕を伸ばして幸乃の肩を抱いた。

 丸みがあって柔らかい女の子の体に触れるのは久しぶりすぎて、力加減がわからない。彼女の体がこわばるのはきっと、ぼくがまだはっきりとした言葉を口にしていないから。

「付き合ってない」

 こぼれ出たのは自分でも意外なほどはっきりとした台詞だった。そして、幸乃が不審そうな顔をするのを見てすぐに続ける。

「弱ってるところに出会って勘違いしそうになっただけで、付き合ってない。その人もぼくのことなんて好きじゃなかった。お互いそのことに気づいたから、終わった。それだけだ」

 そのまま彼女を抱き寄せる腕に力を込める。頬に手をかけてこちらを向かせ、顔を寄せる。

「……弱ってるところに出会ったっていうのは……その人だけですか? わたしは違うんですか?」

 唇が触れる前に、ぎりぎりのところで幸乃が問う。

 鼻先には女の子の甘い香り。思い切り吸い込んで、できるならば正気を失うほどその匂いに酔ってしまいたい。

「違うよ」

 ぼくにはもう、嘘をついている自覚すらなかった。

 

 キスをして、服の中に手を入れて肌をまさぐる。彼女のブラウスを脱がせてベッドに押し倒しながら、自分の来ているTシャツも脱ぎ捨てる。頭の中では久しぶりのセックス——宇田とも「最後まで」はしていない——をどう進めるべきか、どのタイミングで義足を外すかでいっぱいだった。

 彼女は驚くだろうか。もちろん驚くだろう。でもそれはきっと、映画館は辛いと告げたときや、スリッパを履けないと告げたときと同じようなもの。一瞬の驚きと気まずさ。そしてきっとすぐに受け入れて慣れてくれる。そう自分に言い聞かせた。

 唇へのキスから頬、耳、首筋へとすべらせて、幸乃が目を閉じたところで一度体勢を立て直す。窓から差し込む日暮れの陽はオレンジ色で、ちょうどいい具合にぼくの下半身の側には影がかかっている。

 下手に前置きをすれば彼女も構えてしまう。だから自然に、できるだけ何事もなく自然に服を脱ぐのと同じように。

 ボトムを脱ぐと、義足を付けた左脚が露になる。幸乃はまだ目を閉じている。ソケットを引き抜いて、外した義足を脇に置く。それからシリコンライナーをくるくると外して義足の隣に置こうとしたときに手が滑った。

 重量のある義足がベッドの上を転がり、ごとんと音を立てて床に落ちる。

 驚いたように幸乃が目を開ける。

 彼女の目がぎょっと、これまで見たことないほど大きく見開かれた。その瞳には、膝のすぐ下で切り株のように断ち切られたぼくの左脚が映っていた。