第40話

 それから幸乃とは何度かメッセージのやり取りをした。繰り返される謝罪と「できればまた会いたい」。彼女もまた、あの日ぼくが口にした「少しずつ慣れていこう」という言葉を完全に信じてはいなかったのだろう。

 どちらからも電話は掛けなかった。それなりに胸をときめかせ寂しい夜を埋めてくれたはずのやり取りが重荷になるのは一瞬だ。

 あのときのことは気にしないで。

 ちょっと実験が忙しくなるから、もうちょっと待って。

 優しい嘘とはとても呼べない出まかせでその場をしのいで、やがて返事がこなくなった。星野梨花からも何度か幸乃とはどうなっているのかと探りを入れられたが、それも適当にごまかしているうちに止んだ。そういえばどうやら最近、本村と星野は正式に付き合いはじめたらしい。

 

 ぼくは自分の本心がわからなくなっていた。

 宇田が本心を隠して近づいたことを許せない裏切りだと思っていた。彼はぼく自身などどうだってよくて、左脚が膝下から欠損している男であれば誰でも良かったのだと思うたびに胸をかきむしりたいほど苦しくなった。

 でも、普通の感性の持ち主である女の子がぼくの脚に対して示す反応を知ってしまうと、むしょうに宇田の手が、声が、言葉が懐かしく思える。たとえそれが歪んだ自己認識を持つ病ゆえの執着だったのだとしても、この世界で心の底からこの脚を美しいと言い、うっとりとした顔で撫でるような人間は他にいないのかもしれない。

 他の誰でもないぼく自身が誰より脚の欠損を気にして、そこから逃れられない。だったら、この体である意味一番なパーツを肯定的に受け止めてくれる宇田は——?

 激しい追求に言い訳をせず、彼は何を思っていたのか。宇田とは正反対に「脚がないことに激しく苦しむ」ぼくを見て、何を感じていたのだろう。いまさらながらそれを知りたいと思う。だが、あれだけひどい言葉を吐いて別れた手前、自分から連絡することなどできそうにない。何度か宇田の家の近所まで行き、そのたび引き返した。

 

 次の通院の日は、宮脇に出くわすことを密かに期待していた。

 ずっと連絡を取っていないとは言っていたが、もしや彼は宇田の近況を知っているのではないか。数少ない宇田の病を知る仲間として、何らかの相談を持ちかけられたりはしないだろうか。

 だから、医師の定期健診の後で新しい理学療法担当を紹介されたときには思わず呆然とした。

「野島です。はじめまして、どうぞよろしくお願いします」

 そう言って手を出してきたのは、人の良さそうな糸目をした四十がらみの男だった。ぼくは自分から宮脇を担当から外して欲しいと頼んだことをすっかり忘れていたのだった。

「はあ……よろしくお願いします」

 いまになって、やはり宮脇に戻してくれとは言えない。それに、別にあの男とリハビリをしたいわけでも、親交を深めたいわけでもないのだ。ただ、宇田の現状を知る可能性のある人物とできるだけ自然に出会いたいという、これもまたぼくの臆病でずるい考えだ。

 野島は宮脇ほど義足リハビリの経験が豊富ではないが、そのぶん一方的に意見を押し付けることなしに丁寧に話を聞いてくれる。彼の方から宮脇の話題を出さないのは、ぼくが担当替えを希望した背景に何らかのトラブルを想像しているからだろう。

 だから、その日の面談と軽いリハビリのあとでこちらから宮脇の居場所を尋ねると、野島は驚いた素振りを見せた。

「宮脇先生は今日はお休みですか?」

 リハビリ室のどこにも見当たらない。体育会系らしく無駄に声が大きい彼だから、いれば必ず気づくだろう。

「ああ、宮脇さんは多分いま休憩中じゃないですかね」

 野島の糸目の笑顔からは、宮脇が本当に「休憩中」なのか、それともぼくとの遭遇を避けるようなシフトが組まれているのかはわからなかった。

「彼に、何か?」

「何でもありません」

 さらりと、しかし探りを入れるような質問を軽く交わしてぼくはリハビリ室を後にした。これ以上他の人間を巻き込むつもりはさらさらない。

 着替えて身なりを整えると、前に宮脇と話をした中庭のベンチに向かう。もしスタッフ用の休憩所にいるならば捕まえられないが、それ以外で彼がいるとすればきっとあのベンチだろうと思った。

 

 案の定、中庭を進むうちにベンチに座る男の影が見えてきた。この病院の理学療法士や作業療法士のユニフォーム代わりの、詰襟のメディカルジャケットとボトム。ちらりと見える横顔は施術中のはつらつとした笑顔とは程遠い、疲れたような表情。かなり近い距離まで近づいても気づく気配はない。

「宮脇さん」

 声をかけると、素早く顔を上げる。ほんの一瞬で完璧な「患者向きの笑顔」が作られるが、そこにいるのがぼくだと気づいた瞬間に笑顔は消えた。

「なんだ、土岐津さんか。どうしたんですか?」

 接客用の愛嬌が消えているのに文句は言えない。だってぼくは自ら宮脇の患者であることを止めたのだ。

「定期健診なんです。リハの野島先生にも会いました」

「ふうん。ベテランだし、いい人ですよ。本人は謙遜するかもしれないけど、義足リハだって十分な経験があるから何の心配もないですね」

「そうですね、すごくいい人でした」

 まずは当たり障りのない報告。宮脇も同じトーンで応じる——と思わせて、ちらりとその瞳に懐疑的な光が宿った。

「で、新しい担当と上手くいきそうなのに、どうしてわざわざ?」

 勧められてもいないのにぼくはベンチに座る。精一杯のわざとらしい笑みを顔に浮かべて頭を下げた。

「前回あなたから包帯での調整を教えてもらったおかげで脚の調子がいいんです。だから、そのお礼に」

「律儀だな」

 それだけではないだろう、と、あからさまな皮肉が込められたつぶやき。

 宮脇は宇田の怪我のことを知っているのだろうか。おしゃべりでお節介な男だから、知っていれば黙っていられないだろう。そう甘く考えていたのに、彼は何も言わない。もしや何も知らないのか?

「……最近、宇田くんと会いました?」

「会いましたよ。それが?」

 どうせいつものように「長く会ってないって言っただろう」と流される。そう覚悟して打ったジャブだったが、宮脇の答えは想定外だった。

「じゃあ……もしかして怪我のこと!」

「それを聞いてどうするんですか?」

 もう少し出方を見るつもりだったのに、思わぬ返事にペースを崩された。ぼくは思わず前のめりになるが、反応は冷淡だ。

「土岐津さんは、もう真輔と自分は関係ないって言ってたじゃないですか」

 前回話をしたときのことを蒸し返されると分が悪い。

「だからって……でも……報告くらいしてくれたって」

 自分でも理不尽なことをいっている自覚があるから、声は小さくなる。そしてぼくが弱気になればなるほど、宮脇の苛立ちは増すようだった。

「土岐津さんに教える義理なんか、ないでしょう」

 そう言って、一息。さらに勢いづいたように続ける。

「あなた、真輔が何に苦しんできたのかを聞いて、その上で関係ないって言ったでしょう。土岐津さんと真輔のあいだに何があったかはよく知らないですけど、あなたは傷ついたのは自分だけで、不純な動機で近づかれて迷惑被ったとばかりにあいつを糾弾して縁を切ったんでしょう?」

 ぐうの音もでない正論。そして宮脇は冷たい目でぼくを見る。

「もしかして、ほとぼりが冷めて、自分のコンプレックスをそのまま崇拝してくれる人間の存在が惜しくなってきました?」

「なっ……!」

 かっと顔が熱くなる。遠慮ない物言いに怒りが込みあげるが、それが醜い本音を見透かされた恥ずかしさの転嫁だということはわかっていた。

 歯噛みして、何か言い返してやりたいのに言葉が出てこない。だって宮脇は正しい。

 宇田に勝手な理想を抱いて、思っていたのと違っていたからと縁を切る。それから幸乃に期待して、今度は彼女の視線に傷ついたからと切り捨てて、宇田を懐かしがる。自分がどれほどエゴにまみれて最低であるかはわかっているのに、それでも心のどこかでは「ぼくは事故で脚を失い傷ついた可哀想な人間だから、このくらいは許されるべきだ」と信じている。

「……否定、できません」

 力ないつぶやきだけで精一杯。だってぼくは、ちょっと頭を下げれば宇田はあの日の暴言や暴力を許してくれるのではないかと期待している。彼の歪んだ願望を受け入れさえすれば、「美しい脚」の持ち主であるぼくを拒むことなんてできないはず。そんな卑怯な夢を持っているのだ。

 宇田を弟のように——もしくはそれ以上に大切な存在として——彼の繊細で傷つきやすい心を刺激しないよう距離をおいてきた宮脇が、そんなぼくを良く思うはずはない。

 うつむいて地面を見つめるぼくを、責めるような目で宮脇がしばらくのあいだ見つめる。そして小さなため息の後で呆れ果てたように言った。

「真輔の怪我のこと、どこで知ったんですか」

「宇田くんのアルバイトの同僚の子と偶然会って、怪我して休んでるって」

「本人から聞いたわけじゃないってことか」

 安堵だろうか、それとも別の感情か。ともかく、しばらく考える時間をとってから宮脇は言った。

「でもまあ、知ってるなら隠すほどのことでもない。ご想像どおりですよ。真輔は脚を切りました」

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