第42話

 病院を出て、電車に乗って自宅最寄り駅まで戻る。すでに外は薄闇。しかもいつの間にか空を雨雲が覆いいまにも雨が降り出しそうな空模様だ。しかしぼくは自宅に帰ることはせず、そのまま宇田の家に向かった。

 出てきてくれるだろうか。出てきてくれたとして、話はできるだろうか。自信はないが、いまの衝動を失ったらきっとまた弱気に足を絡めとられてしまう。

 宇田の住むマンションが古くて、ろくなセキュリティがないのはありがたかった。一度だけ訪れたことのある部屋番号は覚えているから、ネームプレートの出ていないドアの前に立ってひとつ深呼吸するとチャイムを鳴らした。

 ——反応はない。

 二度、三度鳴らすと緊張は少しずつ和らぎ、代わりに不安が押し寄せる。予告のない訪問は無視することにしているのか、それとも、もしかしたらまた自身を傷つけるような真似をしているのでは? 氷と浅い傷、ドライアイスと深い傷……宮脇は「真輔の臆病に救われた」と言うが、宇田も学んではいるのだ。彼が三度脚を切りつけたとして、もしもそれが成功してしまったとすれば? 部屋の中で血まみれになって倒れている宇田の姿を想像して背中が冷たくなった。

「宇田くん? 宇田くん、いるのか!?」

 堪えきれずドアをドンドンと叩いていると、軋む音を立てて隣の部屋の扉が開いた。くたびれた顔の中年男が怪訝そうにぼくの顔を見て言う。

「あのさ、そこの部屋の人、ちょっと前に出かけましたよ」

 だからうるさい真似はやめてくれ、とでも言いたげな迷惑そうな口ぶりだった。

「出かけた? でも彼は脚が……」

 まだひとりで歩くには支障があると宮脇は言っていた。外出などできるものだろうか。

「ああ、怪我してるみたいだけど、杖ついてなんとか出て行ったよ」

 ——何が「おとなしく家で寝てる」だ。

 ぼくは男に礼を言うとすぐさまエレベーターに飛び乗った。

 とはいえ、宇田の行き先に心当たりなどない。彼の日常といえば家と仕事の往復ばかり、家族との交流も最低限で友人はいない。趣味といえるものもない。そんな彼がいったいどこに行くと言うのだろう。そんなことを考えているうちに、ふと彼が長いあいだ抱えてきた空虚と孤独が突如、異様な現実感をもってぼくを襲った。

 ずきん、と左脚が痛んだ。

 なくなった脚が痛んだ。

 あの日以来、一年近くの断続的にぼくを悩ませる幻肢痛。「なくなった脚が痛む」痛みは、脚があったころの自分を思い出させることで単なる疼痛として以上の苦しみをもたらした。

 宇田はきっと、彼が体の違和感を覚えはじめたという思春期以降、二十四時間、三百六十五日絶え間なく、これとは真逆で——しかしよく似た苦しみを味わい続けていた。しかも、誰の目から見ても「脚を失った不幸な」ぼくとは違い、家族からも医者からも理解されることのない苦しみ。その痛みと孤独はどれほど深く果てしなかっただろうか。

 降り出した小雨の中、慣れない小走りで近所を探し回るが宇田の姿は見当たらない。病院、仕事先、宮脇、どこかに連絡すべきだろうかと頭のどこかでぼくは最悪の事態を思い浮かべた。

 もしも宮脇の言うことが真実だったなら、不安定な精神状態をなんとか抑え込んでいた宇田がぼくという「左脚のない男」との出会いによって抑制を失ったのだとしたら、どう責任を取ればいいのか。

「宇田くん……」

 出会ってからのことを思い出す。

 心配してくれる人たちすべてを拒否して、孤独に引きこもっていたぼくに傘をさしかけてくれたのは彼だった。一切の動揺なしにこの脚に触れて、美しいと言ってくれた。

 肉体の欠損という大きなアクシデントとどのように向きあい、どのように受け入れる——もしくは受け入れられないかについて、正解はない。同じような障害を持つひとりひとりが、それぞれの選択をするしかないのだ。

 傷つきながらも少しずつ周囲の理解を得て新しい体を受容していくのはひとつの方法だが、それはではなかった。なぜならぼくはもう、宇田に出会ってしまったから。他の誰にもできない方法でこの脚を受け入れ、愛してくれる人に出会ってしまったのだ。ぼくが前を向いて社会に戻っていく、その根本には宇田という少し風変わりな人間が、他の誰でもない「脚を失って以降のぼく」を認めてくれることが欠かせない。

 愚かなぼくは、宇田を傷つけて、幸乃を傷つけるまでそのことに気づけずにいた。

 

 雨脚が強まってきたが、宇田は見つからない。ぼくの脚はいつの間にか自分の住むマンションに向かっていた。

 駅から最短距離で宇田の部屋に向かったから、まだ確認していなかった道。宇田がぼくの家の方向など目指すはずがない——そう思いながらも歩くことを止められないのは、もしかしたらただ、ぼく自分があの景色を見たいと思っていたからなのかもしれない。

 マンションが見えてくる頃には全身ずぶ濡れになっていた。相変わらず注意は必要だが、春よりはずっと雨の中を歩くのも上手くなった。そんなことを思いながら自宅を横目に駅の方へ歩き続けると薄暗い坂道に差し掛かる。あの日、大雨のなか転倒して立ち上がれないぼくに、宇田が傘を差しかけた場所。

 ゆっくりと歩く。急な大雨のせいか人通りはない。

 やっぱりこんな場所、無駄足だった。宇田はどこかで雨宿りしているかもしれない。それか、ただ行き違いになっているだけ。一度宇田の部屋に戻って、彼がまだ留守にしているようなら——癪ではあるが、念のため宮脇に連絡した方がいいかもしれない。そこまで覚悟を決めたところで、ちょうど電柱の影になったあたりに、黒い影が見えた。

 踏み出すごとに、それが見知った人間の姿であるという確信は強まる、そして心臓が高鳴るのと反比例するようにぼくの思考は冷静になっていった。

 

 宇田は雨の中、アスファルトの上に座り込んでいた。

 ずぶ濡れのパーカーにスウェット地のハーフパンツ。左の膝から下は包帯らしきものでグルグル巻きにされているが、それも雨のせいで濡れそぼっている。少し離れた場所に転がっているのはリハビリでもよく使われるタイプの、持ち手のついたステンレス製の杖。膝をついて少し這いずっていけば手が届きそうな距離だが、打ちどころが悪くて動けないのか、それともただ気力がないのか。

 ぼくは一歩ずつゆっくりと宇田に近づいていった。水を踏む足音は聞こえているだろうが、宇田はぴくりとも動かない。ここにいるのがぼくであるとは、きっと気づいていないだろう。

 黒い影の塊のようにうずくまる宇田の隣に立って、手を伸ばす。

「立てないなら、手を貸そうか」

 ぴくりと宇田の肩が震えた。しかし顔は上げないまま彼はきっぱりと言った。

「……いらない」

「でも、立てないんだろう?」

 彼の目の前に立って手を伸ばす。ぼくの脚では膝を曲げて体を屈める動きはしづらいので、彼の腕や肩を持って引き起こすことは難しい。

 宇田は返事をしない。ぼくたちは黙って視線すら合わせないまましばらくそのままでいた。さっきまでは歩き回っていたの暑さを感じるくらいだったが、動きを止めると濡れた体は急に寒さを感じはじめる。ぼくが来るよりも前からここに座り込んでいた宇田はもっと冷えていることだろう。さすがに彼の体が心配になってきた。

「宇田くん、このままじゃ風邪をひく」

 彼がどうしてもぼくの手を借りたくないというなら、杖を。この雨の中でしゃがんで取ってやることはできないが、義足を履いた足で蹴って宇田の手の届く場所に移動させることは可能だ。行儀は悪いが背に腹は変えられない。

 いざ靴先を杖に当てようとしたところで、か細い声が聞こえた。

「……何しに来たんだ」