第43話

 何をしにきたのか。それをひと言で言い表すのは難しい。ひどいことをしたと後悔しているから、宇田の容体を心配しているから、宮脇が宇田との距離を縮めていることに焦りを感じたから。綺麗事のような理由から身勝手なものまで、どれも偽ることのできない本音だった。

 だが、雨の中探し回りながらぼくが一番に伝えたかったことは——。

「謝りたくて」

 そこでようやく宇田が顔を上げた。冷え切っているのだろう、唇まで青白くなっているのが暗闇でもわかる。

「謝るって、何を?」

「宇田くんの事情も聞かずに、勝手な思い込みと決めつけでひどいことをした」

 言葉と同時に激しい感情が込みあげる。体は寒さで震え出しそうなのに、胃のあたりがかっと熱くなって喉が締めつけられた。

 だが宇田は淡々としている。表情からも顔色からも気持ちを読み取ることは難しかった。

「話したって同じ、土岐津くんが想像しているとおりだよ。おれは君の脚が目当てで近づいた。ただ近くでその脚を見て、触って、君がどんな生活を送っているかを観察していただけ。君が期待したような親切な人間じゃない」

 ぼくは、この落ち着き払った態度すら宇田のあきらめなのだと気づく。ずっと宇田のことを寡黙で穏やかな男だと思っていたが、彼が多くを語らないのは、本心を明かしたところで理解されないとあきらめていたからだ。穏やかな態度は、周囲への期待を捨てた彼なりの処世術だった。

 ひどく悲しい。しかし取り乱すわけにはいかないから、ぼくは必死に感情を抑えた。過去に何度も宇田の前で泣いたり怒ったりと醜態をさらしてきた。もう同じことは繰り返したくない。

「同じじゃない。だってぼくは宇田くんのことを何も知らないし、知ろうともしなかった」

「だから、知ったって同じことなんだよ」

「でも、ぼくは——宇田くんが脚を切りたがってるなんて知らなかった」

 思わずそう告げると、宇田の表情がかすかに歪んだ。今日はじめて見せる感情のゆらぎだった。

「そんなこと、どこで知ったんだ」

 問われたぼくは黙り込むが、宇田はすぐに答えを察したようだった。

「まったく、笙ちゃんは口が軽いんだから」

 彼が吐いたであろうため息は、雨の音にかき消された。

 

 どう話を続けるべきか迷っていると、まぶしい明かりがこちらにやってくる。自動車のヘッドライトだ。路肩で目立たないつもりだったが、近づいてきた車はぼくらに気づいたようで速度を落とし、停止した。

 乗っているのは運転手ひとり。細く開けた助手席側の窓に身を乗り出すようにして声をかけてくる。

「どうしました? 事故か何かですか?」

 雨の中で傘もささずに座り込んでいる男と、その隣に立つ男。事故で往生しているか、そうでなければ喧嘩をしているとでも思われたのかもしれない。

「あ、ちょっと……友人が足を滑らせて転倒してしまって」

「救急車呼びます?」

「いえ、大丈夫です。脚を痛めているのでちょっと起き上がるのに手間取っていただけで、自分で帰れます」

 運転手は不審そうだったが、ぼくがひたすら「大丈夫です」を繰り返すとあきらめたように去っていった。だが、きっと怪しいと思われた。下手すればトラブルを疑って警察に通報されるかもしれない。

 ぼくは、黙って座り込んだままの宇田に言った。

「宇田くん、せめて場所を変えないか? 雨も弱くなってきたし、他にも人が通りかかったら……」

 うん、とは言わない。しかし宇田も無駄なトラブルは避けたいのだろう、体をよじって杖のある方に手を伸ばした。ぼくは「しゃがめないから、ごめん」と言って杖を軽く蹴るようにして宇田に近づけた。

 転倒したときに体を打って痛みがあるのか、杖を使って立ち上がる動きはにぶい。不自由な左半身を庇いながらの歩きはこころもとなくて、宇田がいつ体勢を崩してもいいように寄り添って歩いた。本気で体重をかけられたら共倒れになるかもしれないが、そのときはそのときだ。

「どのくらい、あそこでうずくまっていたんだ?」

 ゆっくりとしたペースで坂道を下りながらたずねると、宇田はわからないと言いたげに首を振った。

「宮脇さんは、まだ動けないから家で大人しく寝てるって言ってたけど」

「大体は家にいるよ。ただ……早く買い物くらいできるようにならなきゃ、いつまでも家に来られるから」

 あからさまに迷惑だと言いたげな、その声色は意外なほど冷淡だった。宮脇が長いあいだ宇田を思い、気づかってきたことを知っているぼくは、さすがに同情を覚えた。

「でも、あの人は宇田くんのことを考えて」

「おれがまた脚を切ったら面倒なことになるって、監視みたいなものだよ」

「監視って……」

 冷淡どころか冷酷ともいえる態度。これまで知らなかった宇田の一部分に触れたぼくは、どう反応してよいのか分からず口ごもった。

 杖をついて歩く足を止め、宇田はこちらを見た。

「これが、おれだよ。自分のことしか考えてない。これ以上話したって楽しい話なんてひとつもない」

 脚のない人間を観察するためだけにぼくに近づき、幼なじみの心配を「監視」と切って捨てる。それが事実であろうが、ぼくは宇田を知りたい。

 

 ぼくの部屋の方が近いが、宇田は自宅に戻りたがった。仕方なしにずぶ濡れのまま三十分ほどもかけて、冷え切った体を引きずるようにしてぼくらは宇田の古いマンションにたどり着く。

 鼻先でドアを閉められることを警戒して、宇田の背中に張り付くようにして室内に入り込んだ。幸い無理やり追い出されることはなかった。

 宇田が壁のスイッチに触れると、玄関と一体化したキッチン全体が明るくなる。

 ようやくはっきりと見えるようになった宇田の姿はひどいものだった。着ている服がずぶ濡れなのはもちろんとして、左膝から下にぐるぐると巻きつく包帯も水浸しで、しかもひどく汚れている。その下がどうなっているのかはわからないが、少なくとも傷口に良いはずがない。

「脚、痛むんじゃ?」

 かかりつけの病院の時間外……いや、やっぱり119番か。あせるぼくに、しかし宇田は飄々としたものだ。

「ちょっと濡れただけだから、洗って薬塗って、包帯を取り換えれば大丈夫だよ。そんな顔しなくたって、この脚をどうかしようなんて思ってないから。多少化膿したくらいじゃ切断してもらえないこともわかってるし」

 あまりに平然と脚の切断について口にする宇田にぞっとした。動くことに支障があるほどの痛みを感じ、片脚で生活する不便さも体験して、それでも宇田は脚を失うことをあきらめていないのだ。

「じゃあ、早く傷を洗って……」

「いいよ自分ででき……くしゅんっ」

 宇田が突然大きなくしゃみをする。そうだ、彼は冷え切っている。脚を洗うだけでなく体を温めなければいけない。杖を手放し床に座りこんだ宇田をその場に残し、ぼくは給湯器のスイッチを入れて風呂場に向かった。

 高温は傷によくないだろう。ぬるめの湯をためながら、洗面所で見つけたタオルを数枚掴むと部屋に戻る。

 傷口の処置は自分でできると主張したにも関わらず、宇田は放心したように動かずにいる。濡れた髪にタオルをかけてゴシゴシと擦ってやり、それから彼の左脚に手をかけて——包帯のクリップを外した。

「見てもいい?」

 拒否されても従う気はないが、一応許可を取る努力をする。宇田は力なく首を振った。

「……やめたほうがいいよ。、あんまり気分いいものじゃないから」

 気分いいものじゃない、というのはどういう意味だろうか。素直に受け止めるなら先日の自傷行為の傷を指す言葉。そうでなければ——宇田にとって「違和感」に気づいたとき以来、異物でしかなかった脚そのものについて言っているのか。

 だが、ぼくはもう迷わない。

 そっと包帯をほどくと、まずは骨張った膝頭が顔を出す。すぐ下にはテープで固定されたガーゼ。雨水でぐずぐずになったそれを外すと、膝の前面をぐるりと引き攣れた縫合跡が走っている。さらに包帯を解くと細くなった脚——凍傷の跡は火傷と似ていると聞いたことがあるが、まさしく膝下のあちこちが赤黒くただれ、水泡がつぶれたような跡もたくさん残っている。

 宇田は何度もぼくの膝下で切断された脚を「きれいだ」と言ってくれた。そして、彼がそう言うたびぼくは、宇田の脚の方がよっぽどきれいだと思った。膝下に薄い古傷があるものの一切の損傷のない彼の「普通の脚」を心の底からうらやんでいた。

 でも、いまではこの脚が「普通の脚」ではないことを知っている。宇田にとってはゴースト……存在すべきではない脚。彼を長いあいだ苦しめてきた元凶。そしてこの脚を埋め尽くしている傷は、宇田がひとりで苦しみと戦ってきた跡。

 それを「美しい」以外のどんな言葉で表せるだろう。

「宇田くんの脚は、すごくきれいだ」

 傷だらけの脚を撫でながらぼくがそう告げると、宇田は顔を歪めて唇を噛んだ。その頬をすうっと、涙が一筋伝った。