第44話

 泣き顔を見られまいとしてか、宇田はもぞもぞと右膝を立てて顔を伏せた。しかし涙は止まらず、体ごとしゃくりあげるように震わせながら小さな声でぼくをなじった。

「……きれいじゃない。こんな脚、おれのじゃない。いらないんだ、ずっと」

 その言葉にはっと息を飲んだ。

 きれいだ、というのは偽らざるぼくの気持ち。そして、何より宇田にかけられたその言葉にぼくは救われた。だから無意識に、同じものを返せば宇田も喜ぶに違いないと思い込んでいた。

 だがその言葉に救われるどころか、宇田は傷つき涙を流す。考えてみれば当たり前だ。彼にとって自身の脚が美しいか否かなど何の意味も持たない。それはただ「あるべきでないもの」なのだから。

 理解したくて、慰めたくて、空回る。ぼくは宮脇が自嘲気味に、諭しても無駄だと言っていた意味をようやく理解した。

 怪我をして以来、たくさんの「傷つく言葉」や「傷つく言葉」を覚えた。そんなぼくですら、どうすれば少しでも宇田が救われ、どうすれば彼が涙を止めるか想像もつかないのだ。

 宇田の両親は、大切な息子の体が傷つくことを望んでいない。宮脇も、かわいい弟分以上の存在である宇田が脚を失うことを望んでいない。

 ぼくが彼らとの違いを示したいなら、誰より宇田を理解していることを誇示して信頼されたいなら、こういうべきなのだろう。

 ——辛いね。ぼくは君の気持ちがわかる。君の望みを叶えることを手伝ってあげる。

 でもそんなこと、できるはずがない。

「ごめん、宇田くん。本当にごめん」

 それ以上何も言えず、ぼくはしばらく宇田の冷えた背中をさすっていた。

 

 風呂場の方からざばざばと水があふれるような音がして、お湯を出しっぱなしにしていたことを思い出した。背中と同じくらい冷たい腕をとって宇田を立たせると、風呂場に向かう。そっとしておいて欲しいかもしれないが、このままにしておいては傷は悪化するし、風邪も引きかねない。

 泣き止んだ宇田は再び気力を失ったように抗いもせず風呂についてくる。促すと、のろのろと自ら服を脱いだ。

「お湯、しみる? これ使った方がいいのかな?」

 風呂場の壁に取り付けられたハンガーには、ビニール製の袋のようなものがかかっている。それは入浴の際など手足の傷口や包帯が濡れないように装着するカバーで、ぼくも術後しばらく使っていた。しかし最近は患部を清潔に保っている限り湿潤はむしろ創傷の治癒を助けるという説が有力で、カバーの使用は最低限にとどめられることが多い。風呂も、湯が新しければ問題そのまま浸かって問題はない。

「いらない」

 そっけなく答えて宇田は浴槽に入る。左脚に体重をかけることができないので湯船の縁につかまりながら、動きは用心深い。片脚のぼくが風呂に入るときとそっくりだ。

 見ていて転ばないかハラハラするし、凍傷の跡が残る宇田の脚はあまりに痛々しい。裸で片脚を持ち上げる官能的な格好にも情欲は湧かなかった。

 

 普通に入るにはぬるすぎる湯だが、長く浸かれば体は温まるだろう。濡れた服を着たままでぼくも冷え切っているが、いまは宇田を優先すべきだ。

 やがて青白かった宇田の顔色には紅がさし、硬くこわばっていた表情もいくらか和らいできた。ぼくは浴槽の縁に腰掛けたまま何も言わず、湯の温度が下がりすぎるのを見計ってはシャワーを使って湯船に熱い湯を足してやった。

 宇田が口を開くまでは、何分、何十分かかっただろう。

「最初に見たとき、土岐津くんは松葉杖をついてた。駅前のコンビニに入ってきたのを覚えてる」

 いまは余計な口は挟まない方がいい。相槌もうたずに耳を傾ける。

「偶然あっちの店にヘルプで入ってるときで、ものすごく驚いて、どきどきした。自分と同じくらいの年齢で性別も同じで、しかもまさにおれが違和感を持っている左ひざ下がすっぱりなくなってる。そんな人を間近で見るのは初めてだったから」

 そのときの感情に名前をつけるならば、羨望と好奇心。

 あまりに暗い顔をしているから万が一にも「お仲間」だとは思わなかった。だから、先を越されたという嫉妬は浮かばない。代わりに浮かぶのは——「なぜ」という疑問。

 病気だか事故だか知らないが、あの男はすっぱりと左脚を失った。なぜこんなにも熱烈に、十年ものあいだ望み続けている自分の身には何も起こらず、五体満足で生きることを望んでいるであろう彼が脚を失くすのだろう。世の中は不公平だ。

 一度だけ、正直に自分の肉体に抱く違和感や衝動について打ち明けたことがある。最初に医者にかかったとき、宇田はまだほんの少しだけ医療というものに期待を持っていたのだ。

「そんな妄想は忘れなさい、って言われた」

 脚を切るなんて馬鹿げている。実際に脚を失くしたとすればどれだけ苦労して、どれだけ不便な生活を送ることになるか。いざやれば絶対に後悔する。そんなのはただの思春期特有のパラノイアなのだと。

「だから、そういうものなのかなって、そのときは。でももらった薬を飲んでも頭がぼんやりするだけで全然違和感は消えない。どれだけ苦労しようがどれだけ不便だろうが、それがおれのあるべき姿だとしか考えられなくて……だから、実際に脚を失くした人を近くで見てみたいと思ってたんだ」

 そうはいっても、仕事中だった宇田は暗い顔をしたぼくに声を掛けることも後を追うこともできない。駅前店にヘルプに入る機会も少ないし、ぼくもそう頻繁にコンビニに行くわけでもない。

 再会は叶わないままあきらめかけた頃に、宇田が雨の中不器用に歩くぼくを見つけたのは完全なる偶然だった。もちろん僕が坂道で足を滑らせて転倒したのも。

「だったら、ぼくがあんな行動をとったのは?」

「正直予想外だったよ」

 当たり前だ。風呂を勧めるまではともかく、話をしているうちに脚を触れと言い出したかと思えば勃起する。どう考えても尋常ではない。

「でも、おれにとっては好都合だった。だって、義足を外したところを見せてくれなんてどう切り出せばいいかわからなかったし」

 奇妙な利害の一致。寂しかったぼくは久しぶりの人肌に欲望をたぎらせる。そして宇田にとっては、ずっと憧れてやまなかった脚に触れられることに比べれば見知らぬ男と性器に触れ合うことなどあまりに容易かった。それどころか、つるつるとした断端を撫でているうちに、これこそ自分の求めるものだという興奮からか自らの性器すら昂った。

「でも、ちょっとは怖い気持ちもあったな。触ったら思った以上に『これだ』って思っちゃって。最初に脚を切ろうとして失敗して以来、ずっと堪えていたのに、これじゃ抑制がきかなくなるかもしれないって」

 だから一度は連絡先も残さず、そっと洗った服を置いて去った。

 

 ぼくの胸はざわめく。宮脇の言うとおり、僕との出会いが宇田を二度目の自傷行為に駆り立ててしまったのだろうか。だとすればやはり、宇田と一緒にいたいと望むことは間違いなのか。

「ぼくと会わなかったら、ずっと耐えるつもりだった? 耐えられると思ってた?」

 否定して欲しいというこちらの心を読んだかのように宇田は首を左右に振る。

「まさか。一応は懲りたんだよ。調べれば調べるほど自己切断はリスクがあって……実際に一度失敗してるわけだし。だからやるなら次は絶対に確実な方法をと思ってさ」

 そこで一度、言葉を止める。

 言うかどうか悩んでいるように、水面から飛び出した自分の膝頭をじっと見つめ——宇田は続けた。

「お金を貯めて、外国で脚を切ってもらうつもりだった。外国に行けば、闇でそういう手術をしてくれる医者がいるって聞いたから」