外国で、闇で脚の切断手術をうけるため——宇田が極めて質素な暮らしをしながら昼夜も休日も関係なしに働きつづけている理由はやはり、彼の脚に関係していた。
「闇なんて、危ないよ」
意味がないとわかっていながら、ぼくは陳腐な言葉で彼を諫める。そもそも闇手術などというものは現実に存在するのだろうか。ぼくはずっとそれを漫画や映画の世界だけの作りごとだとばかり思っていた。
だが疑いを口にすることがはばかられるような確信が宇田からは感じられる。
「自分でできるなら、その方がいい。でもおれは頭が良くないから医者にはなれなかったし、自分で切り離すだけの勇気も技術もない」
まっとうな医療では自分が救われないと知って医者を目指し、挫折した後は自己切断を試す。それも難しいと悟ってからは闇医療に希望を託して貯金を続ける。宇田の「脚を切りたい」という情熱の根深さと凄まじさには改めて衝撃を受けた。
宮脇にあれだけ無駄だと釘を刺されていたのに、ぼくの頭には意味のない正論しか浮かばない。
「でも、そんなの現実的な話とは思えないし……もしそんな医者がいたとしても、あまりに無謀だ」
頭ごなしに否定しても宇田は怒らなかった。代わりに、疲れ果てたように大きく息を吐くだけ。
「だって、まっとうな医者に頼み込んだって誰もおれの脚を切ってくれない。土岐津くんだって医者の話を疎ましく思ったことがあるだろう? 脚を生やしてくれるわけでもあるまいしって」
「それはそうだけど」
宇田の言っていることはおかしい、常識を逸脱している。強く思う反面で、それがBIID患者の苦しみを知らない「こちら側」から見た勝手な言い分であるとも感じる。残念ながら人間の脚を再生させる技術は存在しないが、もしもどこか外国の闇医者が失った脚を元通りにしてくれるというなら、ぼくは希望を託していたかもしれない。実は宇田の方が正論を言っているのかもしれない——分が悪くなったぼくは黙り込んだ。
しばしの気まずい沈黙。
ぱしゃん、と水音がして宇田が湯から手を出した。
濡れたボトムの張り付いたぼくの左膝に触れて、骨張った丸みを確かめる。すぐ下には、みっともなく浮き出した義足のソケット。それをなぞりながら、彼はねだるように言った。
「土岐津くんの脚が見たい」
もはや本来の関心を隠す必要のない宇田の目には、これまで見たことない切実さが滲んでいる。断る理由はどこにもなかった。
ぼくは立ち上がり、肌にまとわりつく布地に苦労しながらボトムを脱ぎ捨てると義足を外す。ほんの少し前に幸乃を驚かせ怯えさせた醜い体をむき出しにすると、宇田の目が怪しく輝いた。
彼の側から見えやすいように湯船の内側に左脚がくる姿勢で再び浴槽の縁に腰掛けた。宇田は鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せ、うっとりとぼくの脚を見つめる。
「……触ってもいい?」
「いいよ」
まるで宝物に触れるように宇田の指先がぼくの断端を撫でた。最初は指先でおそるおそる、それから手のひらで包むように。愛おしさと羨望と——なぜこれが自分のものではないのだろうか、という大いなる悲しみを込めて。
魔法にかけられたような陶酔を感じながら、ぼくは問う。
「ぼくの気持ちに応じていれば、これを見て、触れると思っていたのか?」
「うん」
率直すぎる答えに傷つかないわけではない。こちらが運命の相手だと舞い上がって馬鹿みたいに宇田への感情を募らせていく一方で、やはり彼の関心の対象はこの左脚だけだった。懇願に応えるように口にした「好き」も本心ではない。宇田にとっては、ぼくが切望する言葉を発することがこの脚を引き止めるために一番簡単な方法だった、それだけのこと。宇田の考えも行動も滅茶苦茶だ。だが、彼の長い苦しみと孤独を知った以上、責める気にはなれない。
ぼくの複雑な心中を察したかのように「後ろめたさはあったんだ」と、宇田は告白する。
「土岐津くんは脚を失くして苦しんでいるのに、それを利用してるって自覚はしてた。それに『失くなった脚が痛んで苦しい』なんて、まるで『あるべきじゃない脚に苦しんでいる』おれの鏡合わせみたいで……上手く言えないけど」
もしかしたら少し種類が異なるだけで、自分の抱えている苦痛はそれほど特殊なものではないのかもしれない。その発想に宇田は動揺したのかもしれない——ぼくが宇田の抱える困難を知ったときと同じように。
宇田がゆっくりとぼくの脚から手を離す。
「土岐津くん、今日は何しに来たの?」
今日最初に口にしたのと同じ台詞をもう一度。
改めて確かめるように。
「おれが土岐津くんを傷つけたことはわかってる。寄り添っている振りでずっと自分の欲望を満たすことしか考えていなかった。絶交されるのだって当たり前だ。なのに、どうして」
苦痛に満ちた声に、ぼくはまたひとつ新しい宇田の姿を知る。
ぼくは宇田に勝手に期待して、勝手に裏切られたと思い込んで、怒りに任せてひどいことをしたと後悔していた。こちらが一方的な加害者で、宇田はあれ以降ぼくに対して恐怖や被害者意識を持っているに違いないと。
だが、宇田は彼なりにぼくに罪悪感を抱き、同時に喪失感を味わってもいたのだ。肉体の違和感に気づいたときから自分は他の人間とは違うのだと思い悩み友人のひとりも作れずにいた宇田は、鏡合わせの苦しみを持つぼくに仲間意識のような親近感を抱いていたのだろう。
根底にあるのが恋愛感情かは別として、ぼくたちは互いに手を離したくはなかった。確信は、ぼくに少しだけ自信を与える。そしてささやかな自信がこの手にあるならば、怖がることなしにこの先を口にすることができる。
「でもやっぱり、ぼくは宇田くんに会いたかった。合わせる顔がないくらいひどいことをしたと思って、それでも忘れられなかった」
ぼくは湯船に沈んだ宇田の手を取った。優しく触れて、ぼくを苦痛から解放してくれる魔法の手。
「だって、誰もが憐れんで、ぼく自身だって愛せないこの脚を、宇田くんだけは心からきれいだって言ってくれた。その言葉にどれだけ救われたか、もっとちゃんと伝えるべきだったと思うよ。それに……怖がらずにもっと最初から宇田くんのことを知ろうとすれば良かった」
濡れた彼の手を導きぼくの脚に近づける。さっき以上に用心深く、おそるおそるといった素振りで宇田の指先が断端に触れた。まだ迷ってる彼の背中を押すように、ぼくは続ける。
「ぼくには宇田くんが必要だ。こんな脚で少しでも宇田くんが癒され満たされるなら、これは君のものだ。だから、これからもたまには会って、一緒に過ごしてくれないか」
宇田の口元が少し緩んだのは、笑いたいからなのか泣きそうだからなのかわからない。結局それ以上彼の表情は動かず、相変わらずの曖昧さで宇田はぼくの脚を改めて撫でた。
「冷たいね」
「ああ、ぼくも濡れたから」
湯の温度が低いので浴槽の縁に座るぼくは肌寒いまま。宇田が許してくれるならば後で風呂を借りるつもりだが、どうせ夜の闇に紛れるのだからこのまま凍えながら自分のマンションまで歩いて帰ったって構わない。宇田がぼくの脚を冷たいと感じるのは彼の体が温まってきた証拠で、それだけでも嬉しかった。
少しのあいだ宇田の指先は迷うように膝のあたりをさまよう。やがてそれは腿に向かい、意図をはかりかねるぼくを無視したまま反対の手でびしょびしょに濡れた袖を引っ張った。
「ごめん、土岐津くんも冷え切ってるのに、気づかなかった」
そして、ぎゅっと体を湯船の片側に寄せながらはにかむような上目遣いでこちらを見つめる。
「狭いけど、君さえ良ければ一緒に入る?」