3. 少年王

 ささやかな提案はあっさり却下され、落胆する〈少年王〉を残して、部屋からは次々と人々が去っていく。

「陛下、さあ、次はお祈りの時間です」

 最後にただひとり残った筆頭賢者がおもむろに口を開いた。バルコニーで民衆に手を振ることが二番目に大事な仕事であるならば、神への祈りは王にとって一番大切な仕事だ。同時に〈少年王〉にとっては最も気の重い勤めでもある。

「どうなさいましたか、浮かない顔をなさって」

「いえ……」

 老人の目はまるで〈少年王〉をとがめているかのようだった。国のための、民のための祈りを嫌がるなどとは王失格で、そのような心構えのせいで国には雨が降らないと責められているようで居たたまれない気分になった〈少年王〉は、何でもないと伝えるために首を振ると立ち上がり筆頭賢者の後に続いた。

 北の塔は王宮の本館とは離れた寂しい場所に建っている。他の建物の豪奢ごうしやさとは対照的な、不気味さすら感じさせる今にも崩れ落ちそうに古い塔は王が祈りを捧げるためのもので、鍵を持つのは筆頭賢者ただひとりだ。そして毎日午後の数時間〈少年王〉は祈りのために塔にこもる。

 塔の作りは風変わりで、てっぺんにある鐘楼しようろうには大きな鐘がぶら下がっているのだが、そこに行くための階段がないので近づくことも鳴らすこともできない。人々はそれを「鳴らずの鐘」と呼んでいる。筆頭賢者が鍵を開けぎしぎしと音を立てる扉を開けば、その先にあるのは地下へ向かう薄暗い石の階段だけだ。頼りになるのは筆頭賢者が手にした行燈あんどんの明かりだけで、日が当たらずじめじめとした石段にはいたるところに苔がしているので、気をつけなければ足を滑らせてしまいそうなくらいだ。

 しばらく下ると階段は行き止まる。分厚い扉を開ければ、そこが祈りの間だった。階段同様あちこちに苔の生えた狭い部屋には、中心にちょうど人がひとり横たわれるくらいの、石を積んで作られた背の低いテーブルのような台があり、簡素な聖杯がひとつだけ無造作に置いてあった。

「さて」

 筆頭賢者は腰に下げた革袋を外すと中身を聖杯に注ぐ。聖杯自体は純銀でできているのだが、長い間磨かれることもなく、すっかりくすんで見た目にはひどくみすぼらしく見える。その中に濃い緑褐色のどろりとした液体が注がれるところから〈少年王〉は無意識に目をそらした。

「さあ、陛下。お飲みください」

 ぐいと差し出され、おずおずと盃を手に取る。筆頭賢者が手ずから薬草をすり潰し煎じて作ったというその液体は見た目もひどいが、においも、もちろん味もひどかった。しかもこれを飲めばいよいよ憂鬱な祈りの時間がはじまるのだと思うと、盃に口をつけるには勇気が必要だ。

「どうなさいました。その煎じ薬は集中力と祈りの効果を増すためのものです。雨を降らせるためにより強い祈りの力が求められているのですから、多少味が悪くても我慢なさらなければ。陛下、民のためですよ」

「……はい」

 民のため。強い言葉に背中を押されるように〈少年王〉は盃を口に運ぶと、得体の知れない液体を一息に飲み干した。まるで子どもが薬を飲むのを監視する親のように、筆頭賢者は少年王の喉が動きすべての薬を飲み終えるのをじっと見つめていた。

 空になった盃を確かめると、筆頭賢者は鍵の束をじゃらじゃらと言われながら、扉の方へ向かう。

「では陛下、しっかりお勤めください。時間になりましたら、またお迎えに上がりますから」

「はい」

 重い扉が閉じると同時に重々しい施錠の音がする。祈りの部屋は内側から開けることができない作りになっており、祈りの時間が終わり迎えが来るまでの間、〈少年王〉はここにひとり閉じ込められた状態になる。天井近くに小さな換気口があるだけで窓のひとつもない薄暗い場所に。

「はあ」

 ひとりになった安堵あんどと、閉じ込められたことによる落ち着かなさからため息をつくが、〈少年王〉はすぐに自身を鼓舞するように首を振って冷たい石の床にひざまずく。ため息などついている場合ではない。このままではじきに飢えと渇きで死人が出はじめる。とにかく祈らなければ。この身を捧げて強く祈り、雨を降らせなければならない。

 だから〈少年王〉はこうべを垂れて、ただ祈る。

 雨を。どうか雨を。

 次第に体の奥から奇妙な感覚が湧き上がってくる。これは祈りによるトランスで、神がかりの感覚こそが〈少年王〉が王たるゆえんなのだと周囲には教えられた。だが〈少年王〉が祈りの時間を憂鬱に思うのは何よりこの状態を恐れているからなのだ。

 暑いような寒いような奇妙な感覚にざわつく皮膚。筆頭賢者は行灯あんどんを部屋の隅に置いていったはずなのに、いつの間にか視界は真っ暗になっている。

 そして、ざわり、ざわり、と不気味な音を立てて〈あれ〉がやってくる音が聞こえはじめる。音は次第に大きくなり近づいてくると、やがて〈あれ〉はその長い手を伸ばし首筋に触れてくる。迫りくる不穏に〈少年王〉は身を固くして、唇をぐっと噛みしめた。