男は、楢の木の下で目を覚ました。
奇妙な声から「王を殺せ」と命令されて渋ったところ、名前と姿を奪うと言われて眩しい光の中で気を失ったことを思い出す。
夢をみたのか? あの声こそもう聞こえてこないが、頭がぼんやりして自分の名前を思い出すことができない。名前の代わりに浮かんでくるのは〈王殺し〉という言葉だけだった。
疲れと孤独でおかしくなっているのかもしれない。とりあえずもう少しだけ薪を拾って小屋に帰ろう。そしてゆっくり休もう。そう思い立ち上がろうとするが、地面についた両手を離そうとすると体はぐらりとバランスを崩して傾ぐ。そういえば、頭だけでなく全身に違和感があった。ふと視線を落として男は目を疑う。なんとそこには見慣れた手足の代わりに黒褐色の毛に覆われた獣の脚があったのだ。
「ヴヴッ」
驚きのあまり声をあげると、喉からは人間の言葉ではなく低い獣のうなり声が飛び出してきた。一体これは何だ? あわてて右手、いや今の外見では右の前脚にあたるものを持ちあげ顔を触ると、顔も脚と同じように分厚い毛に覆われていた。
さっき聞いた声の「姿を奪う」という言葉を思い出し、居ても立ってもいられなくなった。すぐにでも自分の姿を確かめなければ。幸いこの森のことは知りつくしている、ここから少し離れた場所に集落の人々が灌漑に使うための小さなため池があったはずだ。
二本の脚で立つことはできないが、焦る心はそのまま四本の脚に伝わったようだった。信じられないような速さで脚は地面を蹴り、風のように走る。もともと男は大きな体に似合わぬ俊足だったが、人間の二本の脚で走るのとは比べ物にならない速さに恐怖を覚えると同時に妙な爽快感が湧きあがってきた。
普段ならば走ってもしばらくかかるところ、あっという間にたどり着いたため池で、水面におそるおそる顔を映してみる。
そこには、獣の姿があった。
毛並みの整わない黒褐色の毛が全身を覆っている。ギザギザとした凶暴な牙はところどころ口の中に収まりきれず飛び出している。かろうじて灰色の瞳だけがわずかに人間の姿の面影を残しているだろうか。
全体の姿かたちは犬と呼ぶには大きく、狼と呼ぶほど美しくもない。耳は熊のように小さく、しかし尾はアンバランスなほど大きくふさふさとしていた。声を出そうとすれば喉からは低いうなり声。まだ鳴くことに慣れない口からぼたぼたとよだれが垂れ、その水紋が水に映る異形をさらに歪ませた。
夢ではなかった。あの声は本当に男から人間の名前を奪い、人間の姿を奪った。男は今では名もなき〈王殺し〉で、しかもその姿は見るからに獰猛な醜い獣。普通ならば到底信じることなどできない話だが、他ならぬ自分の身に起こっているのだから信じる以外にない。
「グルル……」
途方にくれたため息すら、獣の喉を鳴らすだけだ。
男――〈王殺し〉は、ため池のほとりに丸くなって考えを整理しようとした。あの不思議な声が夢ではなく本当に自分の名前と姿を奪ったのであれば、取り戻すための条件は「王を殺す」こと。一体なぜそんなことをさせられる羽目になったのか。考えれば考えるほど理不尽さに落ち込む中、自らの大きな尻尾がそよそよと頬をくすぐる、それだけがささやかな慰めになった。
「おい、何だあれ!」
ふいに人間の声がして、〈王殺し〉は耳を震わせ立ち上がる。声には聞き覚えがある。同じ集落の男たちが狩りか、もしくは近くの畑の世話にきたのだ。
普段から蔑んでくる相手とはいえ、心細くなっていた〈王殺し〉はうっかり期待をした。彼らが事情に気づき、例えば長老や呪い師の力などを借りてこの呪いを解いてくれるのではないか。そんな思いで近づいてきた男たちに向かい呼びかける。
「ヴォン、ヴォン」
しかし、助けを求める声も彼らにとっては狂暴そうな獣の吠える声でしかないのだ。
「なんだ、あれ。犬にしては大きいが、熊……いや、見たことのない獣だぞ」
「牙をむいてよだれを垂らしている、向かってくるんじゃないか? 危険そうだ。弓矢はあるか?」
男たちの間に緊張が走り、一歩近づくごとに強くなる敵意は間違いなく〈王殺し〉に向けられている。
待て、気づいてくれ。違うんだ、俺は獣なんかじゃない。叫ぶ声が遠吠えに変わる。だが、必死の訴えも虚しく男たちのうち一人は迷うことなく弓に矢をつがえると、それを〈王殺し〉に向かって放った。
「ギャン!」
矢は続けざまに飛んできて、うち一本は〈王殺し〉の耳をかすめた。そこでようやく村人たちが本気で自分を殺そうとしていることに気づいた。弓矢を構える男の後ろでは、数人が火を熾している。松明を投げる気か、それとも火矢で射るつもりか。〈王殺し〉は、くるりときびすを返す。
死にたくない。そして、人間の姿に戻らない限りこの集落に自分の居場所はない。人の姿を取り戻すためには――東へ行き、王を殺すしかない。