8.  王殺し

 逃げるように西の果てを飛びだして、最初は深い森を走った。森は暗く早く駆けるには邪魔な障害物も多いが、今思えば長い旅路の中では一番過ごしやすい場所だった。あちこちに食用できる木の実がなっていて、野うさぎや野生の小鹿といった小動物を捕まえることもできるので食うに困ることはなかった。何よりそこにはほとんど人間の姿がなかったので、この異様な獣の姿を気にすることなく過ごせた。

 森を抜けると〈王殺し〉の旅は困難を増した。森の外に出るのは生まれて初めてで土地勘がないことに加え、捕まえることができる獲物が目に見えて減り一切の食糧を得ることができない日も増えてきたし水場が見つからず渇きに悩まされることも当たり前になった。〈王殺し〉はそこでようやく、もう数週間も雨が降っていないことに気づいた。

 飢えと渇き、そして一番危険なのは人間だ。人里に出て野生の生き物で腹を満たすことができなくなった〈王殺し〉は、生きるために人間の食糧を盗むしかなかった。

 彼のこれまでの人生で、貧しくとも人のものを奪ったことはない。決して盗むことだけはすまいと思っていたが、獣の体を持つようになると自然と心も獣じみてくるものなのかもしれない。ある夜の闇の中、農家の庭に鶏小屋を見つけた瞬間、脳の奥に何かが焼き切れるような感覚があった。

 鶏たちのけたたましい声を聞き、すぐに農家の主が飛び出してきた。

「くそ、野犬か、狼か!」

 松明たいまつが揺れ、黒く闇に溶けた〈王殺し〉の姿を浮かび上がらせようとした。男の手に大きな鎌が握られているのを見て彼はすぐさま逃げ出す。もちろんその口には一羽の鶏をしっかりとくわえたまま。

 はっと気がつくと、目の前にはいくらかの鶏の羽と血だまりが残っているだけだった。久しぶりの食事に我を忘れていたらしい。少しでも水分を体に入れておこうと、地面に残ったわずかな血液すら〈王殺し〉は一滴も無駄にせず舐めすすった。

 正気に返ると惨めさに襲われる。人のものを盗み小動物の生き血をすすり、生のままの肉を食らう。俺はこのままではいつか心までも獣になってしまうに違いない。胸の奥に広がるのは恐怖だった。不思議な声は「王を殺せば名前と姿を返してやる」と言っていたが、あの約束に期限はあるのだろうか。いつまでも獣の体の中にいると、魂すら自分がかつて人間であったことを忘れ獣に成り果ててしまうのではないか。

 焦燥は高まり、それからの〈王殺し〉は昼も夜もなく走り王都を目指した。王を殺さなければ、とにかく早く王を殺さなければ。頭の中はただそれだけで満たされた。

 小さな村をいくつも抜け、ときに少し大きな街も抜け、やがて周囲の光景が賑やかさを増した。都会になればなるほど獲物を見つけることが難しく〈王殺し〉はみるみる痩せ衰えた。ふさふさと大きな尻尾も栄養不足と汚れでどうにもみすぼらしい有様だ。

 もちろん飢えと渇きに苦しんでいるのは〈王殺し〉だけではない。旅を続けるうちに〈王殺し〉は干ばつがこの国を苛んでいることに気づいた。長い道のりの間に一度だって雨は降らないし、出会う人の顔はどんどん暗くなる。ひとつ新しい街に入るごとに市場の様子はどんどん寂しくなっていった。

 やがてこれまで見たことないほど大きな街に入った。街の中心に高い塔を持つ大きな宮殿の姿を見て〈王殺し〉は「ここが王都だろう」と思った。

「グググ……」

 ようやくたどり着いた感慨はただの獣のうなり声にしかならない。旅の疲れで衰えた体は今では醜く大きな野犬に見えなくもない。異形の獣であるよりはまだ街中で人々の攻撃を受けることは少なく、それ自体はありがたいことだった。

 ようやく王都まで来たのだ。王都には王が住んでいる。そして、その王を殺しさえすれば、自分は人間の姿と名前を取り戻すことができる。そう考えると喜びで、疲れ果てた体に力がみなぎるようだ。だが、王というからには宮殿で多くの警護に守られ生活しているに違いない。実際に出会いさえすれば、この大きな体と鋭い牙で簡単に仕留めることができるだろうが、どうやって王に近づくかが問題だ。そもそも〈王殺し〉は、王の姿も顔も知らないのだ。王を見つける方法の見当すらつかなかった。

「おい、もうすぐ『王の挨拶』の時間だぞ」

 途方に暮れて街をうろついている最中に、誰かがそう言うのが聞こえた。〈王殺し〉は小さな耳をピンと張りつめ、聞き耳を立てた。

「おい、俺は王宮へ行くが、お前はどうする?」

「俺は今日はやめておくよ。毎日ああやって祈っても雨のひとつも降りやしない。最近どうもあの王のことは、あまり……」

「なんだ、信心の足りないやつだなぁ」

 道端にいた男たちは言葉を交わし、ひとりだけをその場に残して宮殿に向かって歩きはじめた。王の挨拶、というのが何なのかはよくわからないが、この男たちについていけば王の姿を見ることができるのかもしれない。〈王殺し〉の心は期待に躍り出した。目立たないようにそっと、男たちのあとをつけることにした。