10.  王殺し

「やめておくれ、別に悪いことはしちゃいないよ」

 老婆は果敢にも言い返すが、形勢不利であることはあまりに明白だ。

「うるさい。ここは王都、神のお住まいになる場所だ。乞食が商売するような場所じゃない。ぶっ殺されたいか、老婆め」

 みすぼらしく哀れな老婆を衛兵は二度三度と蹴りつける。小柄な老婆は地面に這いつくばり、体を丸めて暴力に耐えようとしていた。別に正義感があるわけではないが、年寄りにひどいことをするのは見ていて気分の良いものではない。〈王殺し〉は考える間もなく衛兵に飛びかかっていた。

「グルルル、ギャン!」

「なんだこいつ、野犬か」

 相手はひとりだけで周囲に加勢するような仲間はいない。体当たりして驚かせると、衛兵は一度は後ずさりながら剣の鞘に手をかけようとする。〈王殺し〉はそうはさせまいと、再び男に飛びかかり右手の甲に思いきり噛みついた。

「ぎゃあっ!」

 衛兵が叫び声をあげ〈王殺し〉の口の中に生暖かい血の味が広がる。人間の血の味ははじめてだ。ただ噛みついただけではまだ抵抗してくるかもしれない。手加減して少しだけ肉片を噛みちぎり、衛兵の手を口から離す。

「う、うわあああっ。人食い獣だ」

 手の甲から飛び散る血と〈王殺し〉が肉片を吐き捨てる姿を見て、衛兵は真っ青になった。「人食い」とは失礼な。お前のような汚らしい人間の肉など誰が食うものか。言い返したいところだが、あいにく〈王殺し〉は人間の言葉を話すことができないのだ。

「グルル……」

 歯茎までむき出しにして〈王殺し〉は威嚇を続けた。血の流れる手を押さえながら衛兵がじわじわと後ずさり、やがてきびすを返して走り出した。その姿が視界から消えるのを確かめると〈王殺し〉はすぐさま立ち去ろうとする。長居すればあの男が助けを連れて戻ってくるかもしれない。獣の体であろうとも相手が大人数であれば勝ち目はない。

「あんた、お待ちなさい」

 だが、立ち去ろうとする〈王殺し〉に向かって砂埃を払いながら立ち上がった老婆が声をかけた。まるで人間に話しかけるような口調で、そんな風に呼びかけられるのは久しぶりだった。

「あんた、そんななりをしているけど人間だろう」

 老婆はそう言った。「長く生きていると、そのくらいのことはわかるんだよ」と。

 その言葉に〈王殺し〉は驚き狂喜する。こんな姿でいるにも関わらず自分が人間であることをわかってくれる者がいるとは。それだけでただただ嬉しかった。もしかしてこの老婆であれば忌まわしき呪いを解いてくれるのではないか、そんな期待すら湧きあがる。

「ウウウ……」

 だが獣の唸り声に、老婆は申し訳なさそうに首を振る。

「悪いが言葉までは理解できないんだ。ただ、あんたが誰かから魔術で姿を奪われてそんな姿になってるってのはわかるんだよ。かわいそうに、人に戻る方法はあるのかい?」

「ガウッ、ワウッ」

 不思議な声との出会いからこれまでのことをなんとか伝えようと試みるが、当然ながら〈王殺し〉の言葉は伝わらない。すると老婆は哀れむような目で〈王殺し〉を見つめてしわくちゃの手を差し伸べた。

「こんな世界だ。あたしみたいな年寄りにとっても生きづらいが、あんたみたいな獣にとってもそうだろう。ほら、助けてくれたお礼をやるよ」

 老婆は〈王殺し〉の額に指を付けると何事かつぶやいた。瞬間目の前にぱっと黄金色の粒子が広がり、ふっと体中が暖かくなったような気がした。しかしそれは一瞬のことで、すぐに何もかもは元に戻る。

 こんななりでも唖然としているのは伝わったのだろう、老婆はうっすらと微笑んだ。

「強く願えば、あんたの体は黄金色の雨になりどんな狭い隙間もとおり抜けることができる。あたしには、あんたにかけられた魔術をといてやることはできないが、この程度のまじないでも寝る場所に困ったときには役に立つだろう。ただし覚えておいで。この力が使えるのは三度だけだよ」

 体が黄金の雨になる――そんな魔法のようなことが本当にあるのだろうか。にわかに信じることができない話だが、人の名や姿を奪う魔法があるのならば、人の体を黄金の雨に変えてしまう魔法もあるのかもしれない。もしもそれが本当であれば、王を殺しに行く際に役に立つだろう。

「ウォン」

 お礼代わりに一声鳴いて〈王殺し〉は老婆の元を離れた。

 夜が訪れ、王都は濃い闇に包まれる。人々が寝静まる時間帯まで待って〈王殺し〉は王宮への接近を開始した。幸い獣の目は闇の中でも遠くまで見渡せる。王を殺すという目的について言うのであれば、人の姿でなく獣の姿で試みるのはずっと理屈にかなっているようだ。

 王宮の周りは堅牢な塀に囲まれていて、複数ある門はいずれも固く閉じられている。広大な敷地の外をぐるりと一周してみるが、くぐり抜けられそうな場所も飛び越えられそうな場所も見当たらなかった。〈王殺し〉は落胆したが、辛抱強く裏門の様子を窺っているとやがて一人の衛兵があくびをしながら門の外に出てきた。どうやら用を足すことが目的だったらしく、衛兵は堀に向かって立ち小便をはじめる。ここぞとばかりに〈王殺し〉はするりと門の内側に入り込んだ。

 そこには美しく手入れされた広い庭が有り、庭の先には宮殿がある。昼間にも目にしたはずだが、夜の闇の中で見る宮殿は異様に大きく見えて〈王殺し〉は圧倒された。こんな広い建物で一体どうやって王の居室を探せば良いのだろう。どうにか建物の内側に入ったとして、王を見つける前に朝が来ればきっと人に見つかってしまう。

 幸い〈王殺し〉の足先は柔らかく体は黒い。爪を立てないよう気をつければ夜のうちだけは人に気づかれず動き回ることができる。どうにかして日が昇る前に王を見つけ、殺さなければならない。〈王殺し〉は、建物の高い場所にあいている換気用の窓を見つめ、強く願った。

 ――あそこから、中に入りたいと。

 ふっと体中の力が抜け、黒く醜い獣の体がばらばらに砕けるような気がした。老婆の言うことは本当だった。次の瞬間〈王殺し〉の体は黄金色の雨となり、宮殿の窓から内側に降り注いでいた。