首筋に生温かい獣の息が触れる。
しかし覚悟したような痛みや衝撃はいくら待っても訪れず、やがて緊張の糸が切れた〈少年王〉はゆっくりとまぶたを開いた。
目の前には獣がいた。おそろしい姿の獣――しかしそれは戸惑いうろたえた様子で〈少年王〉を見下ろしていた。こんな子どもをどう扱って良いかわからず困っているかのような灰色の暗い目は、よく見ると凶暴とはいえないような気もする。どちらかといえば寂しがっているような、悲しさをたたえた色。
月明かりの下じっと獣と見つめ合ううち、恐怖はゆっくりと和らぎ〈少年王〉の体の奥へ消えていく。
「君……どこからきたの?」
言葉が通じるとは思えないが、つい呼びかけてしまった。そして灰色の寂しい目に誘われるように〈少年王〉は腕を伸ばしていた。白い指先が影のように暗い毛皮に触れようとする直前で、獣は歯をむき出しにして「グルル」とうなり声を上げた。
「ここに迷い込んで、怖いのかな……可哀想に」
囁く声が届いたかのようにうなり声が止み、〈少年王〉の指先が獣の毛皮に触れた。
これまで〈少年王〉は一度として動物に触れたことがなかった。王宮にはそもそもほとんど動物がいなかったし、ときおり犬や猫が紛れ込んでも、汚いからという理由から決して王が触れることなど許されなかった。本や絵で見たことのある動物の毛はどれもふわふわと柔らかそうだったが、この獣の毛皮はごわごわとして、ところどころ泥や埃が硬い毛玉を作っている。期待した柔らかさとは似ても似つかないものだったが、それでもはじめて触れる生き物の感触自体が興味深く〈少年王〉は獣を撫でることを止められない。そろそろと毛皮をさすり、やがてその下深いところに指を潜らせると獣の首筋を指先でかりかりと掻いた。誰に教わったわけでもないが、なんとなくそうすれば獣が喜ぶような気がしたのだ。
「グルル……ウウ……」
うなり声が少しずつ小さくなり、やがて獣は黙る。触れられることが嫌ではないのかもしれない。〈少年王〉は抵抗されないのをいいことに、そのまましばらく獣に触れ続けた。
そのうち硬い毛皮の下の体が思ったより痩せていることに気づいた。この獣が一体なんという動物なのかはわからないが、正直いって外見はお世辞にも愛らしいとはいえない。例えばどこかで飼われている愛玩動物である可能性はどこまでも低そうで、もしかしたら空腹のあまり森から出てきたのかもしれないと想像を巡らせる。
「君、もしかしてお腹が空いている?」
「……ウウ」
小さなうなり声はさっきよりもおとなしい。それが質問を肯定しているのか否定しているのかはわからないが〈少年王〉は自分に都合良く解釈することにした。彼はすでにこの醜い獣のことを気に入りはじめていた。
立ち上がり「おいで」と声をかけると、獣はおとなしく後をついてきた。自室まで行き扉を開けるとするりと影のように部屋の中に入りこむが、いざ豪華な家財や装飾に彩られた広い室内を見回せば居場所に困ったように壁際にしゃがみこんでしまう。遠慮がちなその姿がおそろしい外見と不似合いで、むしょうにいじらしかった。
何か食べ物をやろうと思って連れてきたものの食事どきでもないので部屋に置かれた食べ物はそう多くない。間食用に置いてある寝台脇の果物籠のことを思い出した〈少年王〉はそこから木の実を取り出して、獣を呼んだ。
「おいで、食べ物をあげるよ」
だが、警戒しているのか獣は壁際にうずくまったまま歩み寄ろうとはしない。しかたなく〈少年王〉は獣のいる場所まで近寄って行き真っ赤な木の実を差し出した。この生き物が一体どのような食べ物を好むかはわからないが、食欲はあるようで歯並びの悪い口元からよだれが垂れる。しかし人の手から食べるのが嫌なのか視線を木の実に釘づけたままぴくりとも動こうとしない。
そのうち音を上げた〈少年王〉が木の実を床に置いて数歩後ずさると、ようやく獣は赤い実に食らいついた。案の定空腹だったのか、がつがつと汁で口を汚しながら熱心に実にかぶりつく様子もまた微笑ましく、この獣がものを食べているところをもっと見たくなった〈少年王〉は、今度は籠ごと抱えて獣のそばへ行くと次々と木の実や果物を床に置いた。
「ふふ、やっぱりお腹が空いていたんだね」
与えたものを次々平らげていく姿に思わず小さな笑いがこぼれ、その声に自分で驚く。何しろ、宮廷での記憶をさかのぼるかぎり〈少年王〉はこれまで一度だって笑ったことなどなかったのだ。