13.  王殺し

 廊下を曲がった先で〈少年王〉に出くわしたとき〈王殺し〉はとんでもなく動揺した。まさか王が夜中にひとりで廊下をうろついていようとも思わなかったが、何より驚いたのはそのたたずまいがあまりにも儚かったからだ。月の明かりに照らされた少年は、昼間に豪奢ごうしやな衣装をまとってバルコニーに立っていた不安げな姿と比べてもずっと弱々しく疲れ果て、それこそ夜の風に溶けて消えてしまいそうに見えた。

 小さな叫び声をあげて、怯えて、立ちすくむ。一歩一歩後ずさりする〈少年王〉を〈王殺し〉はひたひたと追い詰める。そして、とうとう壁際で〈少年王〉は腰を抜かし床にへたりこんでしまった。

 間近で見る〈少年王〉の姿は〈王殺し〉の心を奇妙な方向に揺さぶった。細く白い喉に鋭い牙を突き立てるところを想像することそれ自体がぞっとするほど恐ろしく残酷に思える反面、そうする自分を想像すると背筋を恐怖とも違う興奮が駆けあがり脳が痺れる。この子どもを容赦なくむさぼり喰らってしまいたい気持ちと、そうしてはいけないという気持ちの狭間で激しく揺さぶられ、このときはかろうじて後者が勝った。

 しかし〈王殺し〉の体の中をそんな風に暗い情熱が駆け巡っていることになど〈少年王〉はこれぽっちも気づいていないようだった。疲れきった顔をした〈少年王〉は、じっと獣の瞳をのぞきこむうちに突然子どもらしい無邪気さと無鉄砲さを取り戻したのか、なんと手を伸ばして〈王殺し〉の体に触れた。最初はおそるおそる、やがて指は硬くごわついた毛をいて、その奥にある無残に痩せた体をも撫でさする。

 初めての感覚に〈王殺し〉は動けなくなった。魔法を授けてくれた老婆が額に軽く触れたことを除けば、これまで誰ひとりとして醜い獣に触れようとした人間などいない。それどころか〈王殺し〉がかつて人間の姿をしていた頃を振り返ったところで、実の母親さえもこんなふうに優しく触れてはくれなかったのだ。人はまるで彼が汚物であるかのように触れることを拒み、数少ない接触といえば殴る蹴るの折檻せつかんを受けるときと決まっていた。

 人の指はこんなにも優しく、こんなにも悲しいものなのか。そっと撫でてくる細い指はひんやりと心地よく、うかつにも〈王殺し〉はうっとりとした気持ちになる。そして陶酔のままに「おいで」と呼ばれれば抗うことなどできるはずもない。ただ導かれるまま〈少年王〉の後をついていくだけだった。

 生まれてこの方見たことのない豪奢ごうしやな部屋に怖じ気づく〈王殺し〉を無理やり部屋の中心まで引きずることはせず〈少年王〉は木の実を手にして部屋の隅までやってくる。さらに、その美しい手から直にものを食うことをおそれる気持ちと激しい空腹の間で立ちすくんだままよだれを垂らす〈王殺し〉の醜く不作法な姿を叱るどころか、おびえる心を察して木の実をそっと床に置いてくれさえした。

 赤く熟れた甘い実を一口ほおばれば、後は記憶すらはっきりしない。飢えて渇いた〈王殺し〉は目の前に置かれる食べ物に次々かぶりつき、ただひたすら飢えを満たすための行為に必死になった。食べている間はここが王宮にある〈少年王〉の寝室であることも、自分が目の前の子どもを殺すためにここへやってきたことも、何もかもを忘れた。

 そして、ようやく腹がくちくなって、ゆっくりと体の内側から押し寄せる眠気に襲われながら顔を上げると、そこでは〈少年王〉が笑っていた。優しく触れられることが初めてならば、当然誰かに微笑みかけられることも初めてだ。〈王殺し〉は、ただ戸惑うことしかできない。

 チャンスは多くない。朝になればきっと従者や衛兵が現れて〈王殺し〉はここからつまみ出されてしまう。再び訪れようにもあの老婆にもらった魔法は残り二度。都合良く毎回この寝室に入り込めるとも限らないのだ。

 わかっている。人の姿に戻るには、名前を取り戻すには、今この場で〈少年王〉を食い殺すのが一番だ。だがずっしりと重い腹を抱えていては、どうしてもそういう気分になれなかった。

 真っ白い肌に銀の糸のような髪と、真夜中のように黒い瞳。男か女かも判然としない折れそうな体からすんなりと細く長い手足が伸びている。眠るときのための衣装だからか、昼間と違って装飾品は身につけていない。薄く柔らかい一枚布からはほんのりと肌の色が透けて見え、左足首に細い金の糸で編まれたアンクレットをつけているだけだが、頭や手足に重そうにあれこれぶら下げた姿よりも、今の方がずっとずっと美しく見える。

「眠くなったの? いいよ、ここで寝ても」

 声と同時に再び指先が毛皮に触れる。自分の喉から意図せずグルグルと甘えるような音が漏れていることに〈王殺し〉は気づいたが、それを止めるすべは知らない。それどころか、低く耳障りにも思える音に頬をゆるめる〈少年王〉の姿を目にして、なぜだか悪い気はしなかった。

 まあいい。こんな子ども、殺すならばひと寝入りしてからだって遅くはない。〈王殺し〉はゆっくりと目を閉じた。

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