15.  王殺し

 たくさんの人々が遠慮のかけらもなく部屋に入ってくる。こんな場所に獣が潜んでいることは決してばれてはならないと思い〈王殺し〉は寝台の下で床に腹をつけ、息を殺して様子をうかがった。

「おはようございます、陛下」

「よく眠れましたか?」

 口々にかけられる挨拶の言葉に対して〈少年王〉の返事は聞こえてこない。決して口数が多いわけではないが〈王殺し〉には盛んに声をかけ、朗らかに笑っていたのが嘘のように、彼は沈黙を守っていた。

 ばたばたとせわしない足音と、繰り返し聞こえてくるのは、ざあっと水の流れる音。森を抜けて以降こんな風な音を聞いたことがあっただろうか。何しろ人々の話によればもう百日あまりも雨は降っておらず、今や国中が干ばつに苦しんでいるのだ。そういえば昨晩与えられた甘く汁気の多い果実だって、〈王殺し〉がここ最近通り抜けてきた街の市場ではほとんど見かけることがなくなっていた。

 あの宝石や豪華な衣装といい水や食べ物といい、庶民がどのような暮らしをしていようと「あるところにはある」ものなのだ。〈王殺し〉は街中で庶民の男が〈少年王〉について愚痴をこぼしていた気持ちをはじめてわずかながら理解した。

 外が明るいので目を凝らせば白いシーツ越しにうっすらと部屋の中の様子を見ることもできる。〈王殺し〉が暗い灰色の目を細めると、部屋の中にある大きな浴槽に運ばれてきた桶からどんどん湯が注ぎ込まれていくところだった。先ほどから聞こえてくる水の音はこれだったのだ。そして〈少年王〉はたくさんの人に囲まれながらも、まるでこの世に一人きりでいるかのような暗く不安げな顔で浴槽の方をぼんやりと眺めている。

「さあ、お湯の用意ができました。お召し物をお脱ぎください」

 侍女のひとりが声をかけて〈少年王〉に手を伸ばす。そこでふと、彼の着ている寝巻きに咎めるような視線を落とした、

「あら、陛下。お召し物に泥がついていますわ。一体どこで……」

 その言葉に〈王殺し〉はおののいた。長い旅をして、水浴びのひとつもしていない自分の体がこびりついた泥で汚れていたのはわかっている。暗闇の中だから気づかなかったが、汚れた獣に触れ、寄り添って眠った〈少年王〉の寝巻きに泥がついてしまっていたのだろう。

 部屋の中に獣がいることがばれてしまうだろうか。全身の筋肉に力を入れて、もしシーツをめくられればすぐにでも攻撃態勢に入れるよう心の準備をする。今ならば、部屋にいるのは〈少年王〉以外女ばかりだから、きっとなんとか切り抜けられる。もちろん部屋の外がどうなっているかはわからないが。

 しかし、それまで沈黙を守っていた〈少年王〉が慌てたように女の言葉を遮り細い声をあげた。

「ご、ごめんなさい。眠れなくてベランダに出たら、植木をひっくり返しそうになって。多分そのときに土が」

 その言葉に女官は細く整えた眉をきつくひそめた。

「あら、泥は構いませんけど、夜中に一人でベランダに出るなんて、おやめください。ただでさえ〈王殺し〉の噂で宮廷はぴりぴりしているんですから。陛下の身に何かあれば、私どもも責任を問われるんですよ」

〈少年王〉の嘘が特段の追求もなく受け入れられたことには安心したが、一方で〈王殺し〉は自分の名――名といっていいのかはわからないが、少なくとも今のところ自分の存在をなんらかの形で呼ぶのだとすれば、それ以外にないのだと思っている――が侍女の口から出たことに驚いた。

 すでにここでは〈王殺し〉のことが噂になっているだと? しかも侍女の言葉に黙ってうなだれているのを見ると、〈少年王〉も〈王殺し〉について知っているというのか? だったら一体なぜ〈少年王〉は無防備に獣を部屋の中に招き入れたのか、疑念はますます深まる。それともこの王都には他にも〈王殺し〉と呼ばれる暗殺者が跋扈ばつこしているとでもいうのだろうか。そうでなければ〈王殺し〉の噂がひどく曖昧なもので、〈少年王〉は目の前にいる獣こそが〈王殺し〉そのものであることに気づいていなかったのか。

 だが、部屋にいる人間たちはもちろん寝台の下に潜んだ獣が懊悩おうのうしていることなど知る由もない。彼らは〈王殺し〉の存在に気づかないまま、毎日の決まりきった朝のルーティンをこなそうとしているだけだ。

「洗濯しますから、それはこちらに。まったく、ものは言わないし食事もろくにしないし、服は汚すし。陛下ももう少しご自身の立場を自覚して振る舞っていただかないと。十五歳はもう子どもではありませんわ」

 侍女は〈少年王〉にくどくどと説教をしながら、その体から薄い衣を取り払う。寝台に背中を向けて立つ〈少年王〉の、隠すもの何ひとつない真っ白い裸が〈王殺し〉の目の前にあらわになった。

 何度か牙を突き立てるところを思い描いた首筋から繋がる、細いうなじ。飛べない鳥の退化した翼にも似た小さなふたつの肩甲骨。いかにも少年らしいまだ頼りなく未成熟な腰のラインは肉付きの薄い尻に続き、軽く足を開いて立つ腿の隙間からちらちらと陰嚢がのぞく。

 女たちに囲まれて未熟な裸体を晒す〈少年王〉。その姿は〈王殺し〉の目には妙に倒錯的に映った。