17.  少年王

 その日もいつもと変わらない一日だった。人形のように体を洗われ飾り立てられてから、昼にはバルコニーに立つ。それが終わればまた忌まわしい祈りの時間がやってきて「あれ」が体中を這い回る。もちろん、雨は降らなかった。

 何か少しでも違いがあったとすれば、〈少年王〉が宰相も賢者たちも侍女たちも誰ひとり知らない秘密を手にしたことくらいのものだ。

 もちろん秘密といっても彼の境遇を変えるような大きなものではない。子どものいたずら程度の些細な秘密にすぎない。それでも宮中で自分以外誰ひとりとして存在を知らないであろうあの獣のことを考えるとどことなく気持ちが明るくなり、〈少年王〉は昼間の時間が過ぎるのをいつになく待ち遠しく思った、

 どうか見つかっていませんように。どうかいなくなっていませんように。

 ようやく祈りの時間を終えて部屋に戻って、すぐにでも寝台の下をのぞきこみたかったが、食事を携えた侍女たちがついてきたので平静を装った。疲れているから食事の準備だけ済ませたら下がってくれるよう彼女たちへ命じて、ようやく一人きりになるとすぐに床に身を伏せて寝台の下をのぞきこんだ。

 暗く狭い場所で灰色の瞳がぎらりと光るのを見て、〈少年王〉の心ははずんだ。

「よかった、いてくれたんだね」

 安堵の声と同時に手を伸ばすが、獣はおっくうそうに少し顔を上げただけで、警戒しているのかその場から動こうとしない。昼間の気の重い務めで疲れ果てた〈少年王〉は、ごわごわと硬いが温かい毛皮に少しでも早く触れたくて、どうすればこの臆病な獣をおびきだせるかを必死に考える。

 もちろん方法はたったひとつ、そしてそれは間違いなく効果的なものだった。〈少年王〉はおもむろに立ち上がると、テーブルの上にずらりと並んだ夕食の皿から一切れの肉を直接手に取った。肉を手づかみするなんて品のない行為、侍女が見たら卒倒してしまうかもしれない。いくら人目がないとはいえ、とても許されないことをやってのける自分が信じられず、それは少しだけ爽快でもあった。

「ほら、今日は肉があるんだよ。美味しそうだろう?」

 肉を持った手を寝台の下に差し込んでひらひらと振ってみせると、効果はてきめんだった。ひくひくと鼻先を動かした獣は、誘惑にあらがえず外に出てくる。

 昨日は床に置くまで決してものを食べなかったが、今日はどうだろう。獣の口の高さに差し出した肉を手から離さないままで〈少年王〉はしばらく様子を見る。獣はしばらくは戸惑う様子を見せていたものの、最終的には食欲に負けたのか肉片に向けてぱくりと口を開けた。

 自分の手からものを食べる獣の姿に〈少年王〉は有頂天になった。そのまま食卓に行くと、皿の上の食べ物を手にしては次々と口元に運んでやる。差し出されるままに勢いよく食べていた獣は、しかししばらくたつと不思議そうに動きを止めて首をかしげた。

「……どうしたの?」

 用意された料理は〈少年王〉ひとりが食べるには多すぎる量だが、まだ半分ほど残っている。体の大きな、しかも飢えて痩せ細った獣であればまだまだ満腹にはほど遠いはずだ。なのに獣はそれ以上食べ物を差し出しても口にせず、物言いたげに灰色の目で〈少年王〉を見上げると椅子に体を寄せてきた。

「……ウウ……」

「何か言いたいの? ごめん、わからないんだ」

 小さなうなり声の意味を探ろうとするが、もちろん獣の言葉が理解できるはずもない。具合でも悪くしたのかとうろたえていると、急に獣は背伸びをして前足をテーブルにかけた。

「うわっ」

 やはり自分の手からものを食べるのが嫌だったのか、と不安に襲われたところで獣は意外な行動に出る。まだ料理の載っている皿を〈少年王〉の前にぐいぐいと鼻で押してきたのだ。それはまるで、「お前も食べろ」と言っているかのようだった。

「……いや、僕はいいよ。お腹はすいてないんだ」

 そう言って皿を押し返そうとしたところで、驚いたことに〈少年王〉の胃はぎゅっと音を立てた。

「ガウ」

 獣は「そら見たことか」と言っているようだった。

 気まずくて照れくさくて、思わず〈少年王〉は笑う。自分では腹が減っているつもりはなかったが、美味しそうに料理をむさぼる獣の姿を見ているうちに食欲が刺激されたのかもしれない。いったん空腹を意識すれば。目の前の料理やそのにおいは一気に刺激となって押し寄せる。〈少年王〉はおずおずとフォークとナイフを手にした。

「ちょっとだけ食べようかな。これ、半分こしようか?」

 魚の燻製を半分に切り分けると大きな方を床に置く。しかし獣は〈少年王〉の様子をうかがうばかりで手をつけようとしない。しばらく顔を見合わせた後で〈少年王〉がナイフで切った小さなかけらを口に入れると、それを見届けてから獣もぱくりと自分の分の魚をかじった。

「……おいしい」

〈少年王〉がつぶやくと、同意するように獣も小さなうなり声をあげた。

 雨が降らなくなって以来、重圧で食べ物の味すら感じられなくなっていた。しかし、一緒に食卓を囲む相手がいるだけで、たとえそれが醜く汚れた獣だろうと、こんなにも違った気持ちになれるなんて。久しぶりにしっかりと食事を味わいながら〈少年王〉は今日もこの獣と一緒に眠ろうと決める。

 服を汚したら怪しまれるから、食事が終わったらタンスの奥の方にしまい込まれている古い衣服を水で濡らして獣の体をきれいに拭いてやろう。だってずっと不安と不眠に悩んでいたのに、昨晩はあんなにぐっすり眠りこんでしまった。この獣と一緒ならばきっと食事もできるし眠ることもできる。

 ――もしかしたら、雨だって降らせることができるかもしれない、というのはさすがに期待しすぎかもしれないが。