これまでになく沈んだ気持ちで〈少年王〉は祈りの時間を迎えていた。
今日、王の挨拶の最中に中庭に集った人々から罵声が飛んだ。彼がバルコニーに立つようになって以来初めてのことだった。
歓声をかき消すように発せられた「こんなに雨が降らないなんて、悪魔でも憑いているんじゃないのか」という声は大人の男のものだった。王を讃える声や恵みを求める声をあげていた周囲の人々は、乱暴ではあるものの切実な罵声が飛ぶと同時に黙り、場はしんと静まりかえった。そして〈少年王〉はその静けさを、罵声への賛同だと理解した。
続けざまに同じ声が叫ぶ。
「おまえなんか〈王殺し〉に殺されてしまえばいいんだ。俺たちは善なる王しか欲しくない」
すぐさま駆け寄った衛兵に取り押さえられ、声の主は中庭から排除されてしまう。しかし一度場を覆った負の空気は気まずく引きずられ、結局今までにないかたちで王の挨拶の時間は打ち切られた。
侍従長にうながされてバルコニーから引き揚げる〈少年王〉の脚はひどく震えて、自分一人の力ではまともに歩くこともできないくらいだった。
怖い。しかし、その怖さは何のためだろう。向けられる悪意が怖いのか。雨を降らせることができない自分の無力さが怖いのか。それとも〈王殺し〉とやらに殺されること、もしくは〈旧い王〉のように焼かれることが怖いのか。自分でもはっきりとはわからない。
さすがにかける言葉もないのか、宰相も筆頭賢者もなにも話しかけてはこなかった。ぼんやりしたまま北の塔に連れて行かれて、いつもどおりあの怪しげな薬を飲まされると意識が虚ろになり、やがて部屋の隅から「あれ」が現れる。
今日の〈少年王〉には抗おうと試みる気力すらなかった。体に絡みついてくる〈あれ〉に無抵抗に身を任せると、いつものように上半身そして下半身への侵略がはじまる――そのときだった。
まずは一瞬黄金に輝く何かを見たような気がした。少したって〈少年王〉は奇妙に落ち着かない気分に襲われた。部屋の中に何かがいる。自分でも〈あれ〉でもない何かがこの祈りの間にいて自分を〈あれ〉に襲われてみっともない姿をさらす自分を見ている。
嫌だ、と強く思った。こんな恥ずかしい姿を誰にも見られたくない。毎日自尊心をずたずたにされながらもそれでもなんとか自分を保っていられるのは、ここにいるのが自分ひとりだからだ。〈あれ〉に何をされても、どんな姿でどんな声を上げても誰も見ていない。だからぎりぎりのところで耐えているのだ。誰かに助けて欲しくて声を上げてしまうことはある。でももしも本当に誰かに今の自分を見られたら、きっと恥ずかしさと惨めさでどうにかなってしまう。
なのに暗闇の中、少しだけ距離を置いた場所から誰かがこちらを見ている。やがて〈少年王〉は、じっと見つめてくるその目が、その灰色の暗い目があの獣のものだと気づく。
「い、嫌……」
祈りの間を出て行くときに筆頭賢者はいつもと同じようにしっかり扉を施錠していったはずだ。なのに、あの獣は一体どうやってここに入り込んだのだろう。いや、そんなことは問題ではない。今はただこんな姿を見られたくないという気持ち、それだけ。
もちろんあの獣が人間ではないことも、口をきくことができないこともわかっている。あられもない姿を見られたところで、この行為の意味もわからなければ、誰かに言いふらすこともないだろう。
――でも、本当に?
あの獣の灰色の目は優しくて寂しくて賢そうで、〈少年王〉が打ち明ける悩みも孤独も何もかもわかってくれているように思えた。だとすれば今ここで起きていることも、〈少年王〉がどれだけはしたない姿をさらしているかも、理解してしまうのではないか?
見られたくない。せっかくできた、はじめての自分だけの友達。こんなみっともない声や姿を見られて嫌われたくないと強く思う。しかし手足に力を込めようとすると、ささやかな抵抗を面白がるように〈あれ〉はますますきつく〈少年王〉の体を締め付けてくる。
しばらく唖然としたように〈少年王〉の痴態を眺めていた獣は、ふいに顔をそむけた。まるで行為の意味を知り、とても見てはいられないとでも言うかのように。だが、すぐにその視線は床に転がった杯に向けられる。
筆頭賢者がいつも祈りの前に〈少年王〉に飲ませる煎じ薬。今日はどうしても苦しくて、少しだけ残してしまった。筆頭賢者は渋い顔をしたが、八割方は飲み干しているのをみて「まあ、いいだろう」と残りをそのまま放置していった。罵声を浴びて落ち込んでいる少年に少しは配慮してくれたのかもしれない。
獣は興味をそそられたように杯の内側をぺろりと舐めた。だめだ、そんなもの口にしてはいけない。〈少年王〉が制止する声をあげようと口を開けると、すかさず〈あれ〉が入り込んできた。おかげで〈少年王〉は獣に注意を促すどころか〈あれ〉に口内を犯されながらみだらな声を上げる羽目になる。
苦しくて、情けなくて、涙が出そうだった。いっそこのまま意識を失ってしまいたい……そう思ったところで耳元に「ヴヴ」と何度も耳にしたうなり声が聞こえた。
目を開けると、そこには獣がいた。獣はさっきよりも近い距離で〈少年王〉を見ていた。
灰色の目はうるんだような、少し焦点の合わないような、しかし普段とは異なる妖しい光を宿している。最初に出会ったときのような攻撃的な声に〈あれ〉に絡め取られている〈少年王〉の体もびくりとおののく。
「ガウッ」
一声あげると、獣は〈少年王〉の体をむさぼる〈あれ〉に躍りかかった。太い幹を鋭い爪で割き、両脚の奥に入り込もうとする切っ先を尖った牙で噛み切っていく。
はじめて見る戦う獣の姿に〈少年王〉はあっけにとられた。体中を拘束していた〈あれ〉は獣の前にあまりに無力で、ちりぢりの黒い影になって現れたとき同様に闇に溶けていく。いくら〈少年王〉が抵抗しても傷ひとつつけられなかったのに、不思議なほど脆く消え去ってしまう。やがて〈少年王〉を取り巻くのは弱く弱々しい草の蔓程度の〈あれ〉数本のみになり、完全に拘束は解かれた。
さっきまでの行為のせいで体はまだ熱を持っているが、ともかく自由になった〈少年王〉はあわてて上半身を起こした。目の前には獣がいた。獣はまたもや自分を救ってくれたのだ。〈少年王〉はほっとした気持ちで両手を伸ばす。
「ありがとう。また助けられてしまったね……」
その声に応えるように獣が一歩前に出る。そこでようやく〈少年王〉は獣の様子がおかしいことに気づいた。まだ〈あれ〉との格闘による興奮が冷めていないのか、瞳には妖しげな光が灯ったままで、妙に息づかいが荒い。食べ物を目の前にしたときのように口元からはよだれがこぼれている。
「……君、どうし……」
最後まで言葉にすることはできなかった。思いのほか俊敏な動きで石の台座に飛び乗った獣は、興奮した様子のまましばらく〈少年王〉を見下ろしていたが、やがて三本の脚で柔らかく、だがしっかりと細い体を組み敷いた。そして一本だけ自由なまま残した前脚の爪を鋭く伸ばすと、〈少年王〉が身にまとっている薄い衣装を勢いよく切り裂いた。