25.  王殺し

〈王殺し〉は北の塔から少し離れた場所に見つけた茂みの中に潜りこみ長いこと震えていた。自分のやってしまったことがただ怖いと、それ以外なにも考えられなかった。

 どのくらい経っただろう、気づけば周囲は暗闇に覆われ、やがてその中にぽつぽつと灯りが浮かび上がりはじめた。

「おい、いたか?」

「こっちには見当たらない」

 灯りはゆらゆらと揺れながら大きくなり、大人の男たちの声が近づいてくる。その会話から〈王殺し〉は彼らが何かを探しているのだということに気づいた。こんな時間にわざわざ夜回りするということは、何かよっぽど重大なことが起きたのだろうか。

「昼間に宮殿内部で狼のようなものと出会ったという者もいる。きっと例の獣だろう。狼より大きく、黒っぽくて尾が大きいとか」

「そいつが陛下を襲ったんだな。そういえば数日前に街で獣に喰われかかった兵士もいるらしいぞ。同じ獣だとしたら、かなりどう猛なはずだから気をつけろ」

 そこでようやく〈王殺し〉は、追われているのは自分なのだと気づいた。あんなことをしでかして、しかも筆頭賢者に姿を見られておきながら今の今まで自分が追われようとは考えもしなかったのは不思議だが、頭が真っ白で一切思い至らなかったのだ。

 息を殺して茂みの中に体を伏せたまま考える。兵士の数は多く、この様子だと城壁の警備も厳しくなっていることだろう。王宮の敷地外へ逃げるならばこの黒い体が闇に溶けてくれる夜のうちしかないが、だからといってこれだけ多くの追っ手がいる中をうまく逃げおおせるものだろうか。不安は大きく、なかなかその場所から動く気にはなれない。

 やがて足音が近づいてきたかと思うと、突然茂みの中に鉄槍が差し込まれた。

「グアッ」

 驚きのあまり大きな声を上げ〈王殺し〉は反射的に茂みから飛び出した。「うわあっ」という叫び声と同時に人間のかたちをした影が後ずさり、その手から松明たいまつが落ちる。姿を見られてはいけない。その一心で〈王殺し〉は松明の火を叩き潰すように前脚を踏みならした。焼けるような痛みが足裏を襲ったが、幸い数度足踏みしたところで火は消えた。

「い、いたぞ。いたぞ! こっちだ!」

 灯りを失った兵士が仲間に向かって大声を上げると、あちらこちらから松明が集まりはじめる。もはや茂みに戻ることもできない〈王殺し〉は腹をくくって、襲い来る兵士たちとは反対方向に逃げ出した。

 できるだけ人の声がしない方へ、できるだけ火の臭いがしない方へ。城内あげて獣の捜索を行っている中でそれは簡単なことではない。走っては追っ手に出くわし、また方向を変えることを何度も繰り返した。

 それでも闇は〈王殺し〉を助けてくれた。黒く夜に溶ける体を彼らが遠くから認識するのは難しく、誰かが「こっちだ」「いたぞ」などと叫べば、兵士たちは石や木を、ときに仲間の兵士さえも獣と誤認して滑稽な騒ぎをはじめる。〈王殺し〉はその騒動の隙をついて城壁の外から水を引き込むのに使われていたらしき小さな涸れ水路に飛び込んだ。

 もし水が通っていれば、獣がそこに飛び込んだことは音でばれてしまっただろう。しかし今は干ばつの最中で水路もからからに枯れている。〈王殺し〉は体がなんとか通れる程度の細く深い溝の中を進み、城壁の下にたどり着くと侵入を防ぐため取り付けられた鉄格子を頑丈な牙でかじった。少し時間はかかったが、取り付け具がゆるんだのか突然格子は外れて落ちた。

 誰もいない王都の道を〈王殺し〉は一目散に走った。とにかく王宮から遠く、遠く。

 どのくらい時間が経ったかはわからない。月が天頂からやや西に傾きはじめた頃に、疲れ果てた〈王殺し〉は息を切らして立ち止まった。周囲に目をやると立派な建物の並ぶ王都の中心からは遠く離れ、荒れた土地のところどころにあばら屋が建ち並んでいる。いつのまにか街の外れまで逃げていたのだった。

 さすがにここまで追っ手はこないだろう。〈王殺し〉はようやく落ち着いた気分になり、木の陰を見つけると座り込んだ。死ぬほど喉が渇いているが、ここで水を手に入れることは難しい。かつては地面を覆っていたであろう雑草すら茶色く枯れ果てている。落ち着いてくると前脚の裏に負ったやけどもじわじわと痛みはじめた。

 だが〈王殺し〉が思うのは自らの苦しみではなく〈少年王〉のこと。こんな痛みなどたいしたものではない。あの少年が負った傷は、このどう猛な獣に割り裂かれた跡はどれほどのものだろう。きっと彼の痛みは自分の何倍、いや何十倍。

 人間の姿と名前を取り戻そうなどと思ったこと自体が間違いだった。あんなひどいことができる自分自身にはそもそも人間の姿も名前も過ぎたものだった。醜い獣の姿こそが、むしろ本来の自分に見合っているように思えた。

 彼はもう〈少年王〉を殺したいとは思えなくなっていた。誰ひとり顧みてくれなかった、人として扱ってくれなかった自分に唯一手をさしのべてくれた彼を殺したところで、取り戻せるものはあまりにちっぽけだ。いや、それどころか失うものの方が多い。

 人の姿を取り戻したところで、人々は獣を扱うのと同じように〈王殺し〉に冷たく接するだろう。人の名を取り戻したところで、誰ひとりその名を呼びかけはしないだろう。だったら獣のままであの優しい手に触れられ、獣の姿であの優しい声に「君」と呼びかけられる方がどれほどの幸せであったことか。

 その晩〈王殺し〉は〈少年王〉の夢を見た。自分が彼に飼われている夢。あの手で食事を与えられ、あの手で毛を梳かれている、たとえようもなく幸せな夢をみた。