兵士たちに追われて必死に王都の外れまで逃げてきたというのに、空が白みはじめると〈王殺し〉は王宮の様子が気になって居ても立っても居られない。いや、もちろん正確には王宮ではなく〈少年王〉のことが気がかりなのだ。
白髪白髭の筆頭賢者は、神聖なる少年を犯し辱めた〈王殺し〉に怒りを燃やすのは当然のこととして、被害者であるはずの〈少年王〉に対しても責めるような視線を向けた。国そのものであり神であるはずの〈少年王〉が醜い獣に汚された――それはきっと、あの少年自身に非があるか否かは関係なく国にとって大きな問題になるだろう。心配すべきは肉体に負わせてしまった傷だけではない。
一晩探して見つからずあきらめただろうか、それともまだ兵士たちは獣の行方を捜し回っているだろうか。さっぱり状況がわからない中で〈王殺し〉は〈少年王〉を心配する気持ちに抗うことができず、少しずつ昨晩来た道を戻っていった。敵意のありそうな相手を見つけたらすぐに引き返せば良い。走る速さならば、重そうな甲冑を着た兵士などに負けるはずがない。
街に近づくにつれて胸騒ぎが激しくなった。何より不気味なのが、まったく兵士の姿を見かけないことだ。もしかしたら今も獣が王宮の敷地外に逃げ出したことに気づかず城壁内部だけを探し続けているのだろうか。期待をする反面、冷静な心はそんな馬鹿なことはありえないと主張する。ともかく街の様子は奇妙だった。
攻撃的な相手に出会うこともなく、昼が過ぎる頃には〈王殺し〉はほとんど王都の中心部といっていい場所までたどり着いてしまった。太陽の位置からすれば、ちょうど「王の挨拶」がはじまるくらいの時間。あんなことがあった翌日も〈少年王〉は王としてバルコニーに立ち、ぎこちなく手を振ることを求められるのだろうか。彼がどんな様子でいるのか姿を確かめに行きたいが、さすがにそこまでの危険を冒す勇気はない。
やがて、王宮の方からたくさんの人々が歩いてくるのが見えた。最初に王都にやって来た日にこれと似た光景を目にした。おそらく王の挨拶が終わったのだろう。そう思いながら人の波に目をやると、彼らは妙に興奮した様子でいる。喜びとも悲しみとも怒りともいえない、とにかくただ、異様な興奮に包まれていた。
「これでやっと雨も降るだろう」
そんな声が〈王殺し〉の耳に飛び込んできた。
空は抜けるように青いのに、一体何の根拠があってそんなことを言い出すのだろう。しかしその声の主は干ばつが終わることに確信を持っているようだった。そして、次にやってきた男は路上につばを吐きながら、憎々しげに言った。
「まったく、とんだペテン師だ。あんな奴を王だと思って崇めてきたとは。俺たちもとんだ間抜けだったな」
その言葉に〈王殺し〉は足を止める。ペテン師。あんな奴は王ではない。そして雨が降る? そこまで聞けば、先ほどから感じていた胸騒ぎがただの予感ではなく、実際に今この瞬間〈少年王〉の身に良くないことが起ころうとしているのだとわかる。そして間違いなくそれは〈王殺し〉のせいなのだ。
「どうしたんだい、人でも取って食いそうな顔をして」
呆然と立ちすくんでいる〈王殺し〉の背後から、聞き覚えのある声がした。振り向くとそこには以前この辺りで出会った老婆が立っていた。衛兵に因縁をつけられているところを救ったら「黄金の雨に姿を変えてどこにでも入り込むことができる」秘術を三回分だけ授けてくれた不思議な女だ。
あの力があったからこそ〈王殺し〉は王宮に入り込み、あの優しく美しい〈少年王〉と出会うことができた。そう思えばこの老婆は恩人だ。しかしその結果〈少年王〉が窮地に立たされているのだとすれば……〈王殺し〉は複雑な気分で老婆を見つめた。
「騒ぎが気になるかい? とうとうこの国の〈少年王〉を焼くことになったんだよ」
老婆は世間話をするように告げた言葉は〈王殺し〉を戦慄させた。
王を焼く?
さっきの通行人もそんなことを言っていた。そして、同じことを〈王殺し〉は他の誰でもない〈少年王〉の口からも聞かされた。彼の前任者である〈旧い王〉が、三百日の日照りの後に民の手で焼かれたこと。その煙を吸い込んだ空からは大粒の雨が降りはじめたこと。〈少年王〉は、このまま雨が降らなければ自分も焼かれるのかと独り言のようにつぶやいた。あのときの不安そうな顔を思い出すとただただ胸が痛む。
「この国の人間は物覚えが悪いから何でもすぐに忘れてしまうが、あたしは変わり者だから昔のこともよく覚えているんだよ。十五年前もこうやって王を焼いたんだ。その前の王も、さらに前の王も同じように、最後は焼かれて死んだんだ。この国はそうやって持ちこたえてきたんだ」
そして老婆は「あたしも、家のばあさんから聞いた話なんだがね」と、前置きをしてから、半ばひとり語りのように、この国の王が一体どのようなものであるかについて〈王殺し〉に語った。
昔から、それこそ老婆の祖母の、そのまた祖母が生きていた時代よりも前からずっとこの国は「神でありこの国そのものである」王におさめられていた。この国は王が持つ善なる力により民を守っていると考えられていたのだ。だが、王の祈りの下にあってもときに国は厄災に襲われた。
干ばつや大雨、地震といった災害に見舞われたとき、人々はそれを王の持つ力が衰え弱まってきたためだと理解した。もはや国を守る力をなくした王は、もはや王ではない。勇敢な人間が王を討ち、新たな王となった。
王を殺し新たな国の守護者となったとき、王殺し――新たな王は、それを民に知らせるため北の塔の鐘を打ち鳴らした。それは国が新たな王の守護により生まれ変わる知らせだった。
しかし新たな王も、やがて厄災が起きれば同じ運命をたどるのだ。
そのことに人々が気づいたとき、誰も〈王殺し〉の役目を受けようとしなくなった。
「だから王を焼くようになったんだよ。民の総意で、皆で焼いたんだってことにすれば誰も責任を負わなくていいからね。誰だって将来は自分も殺されるとわかっていて、損な役回りを受けたくないさ」
最初に言い出したのか誰かはわからない。いつからか役目を十分に果たしていないと見なされた王は焼かれるようになった。そして、その代わりにどこかの村に生まれたはずの「新たなる王」が捜索され、連れてこられる。
例えば「〈旧い王〉が焼かれたのとちょうど同じ時刻に生まれたから」「魔法の力を持つと言われる紋章を体のどこかに持っているから」「王の証しである金の輪を付けて生まれてきたから」といった理由で新しい王は選ばれる。おそらく本当は、理由なんて何だって構わない。
ただこの国には罪を背負うための存在が必要で、それを便宜上「王」と呼んでいるだけのことなのだ。
次の厄災が起きるまでどのくらいの期間があるかはわからない。連れてこられた新たな王は運が良ければ長く生きるし、運が悪ければすぐに焼かれてしまう。王という名の生贄への後ろめたさは、平時において王を過剰に崇め贅沢な生活を送らせることで帳消しにするのが暗黙の了解となった。
「それがこの国だよ。本当に国の盛衰が王の神通力や善性にかかっているのかなんて、誰も知らない。でも、どうしようもないときに、その責任をぶつける相手がいるというのは、国を維持するためには必要なことさ。もしも本当の神なんてものがいるなら、こんな残酷なこといつまでも許しはしないと思うんだけどね」
老婆の長い話を、〈王殺し〉はただ黙って聞いていた。