あの少年は生まれついての王などではなかった。むしろ国の平穏のために王に仕立て上げられた哀れな生贄にすぎなかった。老婆の話から導き出された事実は〈王殺し〉の心に大きな衝撃を与えた。
それと同時に疑問が湧いてくる。
――では、一体なぜ自分はここに呼び寄せられたのだろう。一体なぜあの声は「王を殺せ」などと命じたのだろう。
だって、〈王殺し〉が何もしなくたって、もうしばらく日照りが続けばどうせ〈少年王〉は民によって焼かれていた。違いがあるとすれば、いつ、誰にどうやって殺されるか程度のものに過ぎない。ほんの十五歳で、自由な世界も知らないまま〈少年王〉はいずれにせよ死ぬ運命にあったのだ。
あの子供の行く末が決まっていたのならば、知らぬまま、関わらぬままでいればよかった。あの日森で光り輝く枝を見つけなければ、不思議な声を聞かなければ、名前や姿を奪われることもなく、王都に来ることもなく……〈王殺し〉が〈少年王〉と出会うことはなかった。そしてこんな風に他人の運命を思って悩み苦しむこともなく、村の外れのあばら屋でひとり寂しいが穏やかに暮らし続けていたはずだった。
そこまで考えたところで〈王殺し〉は耐えきれなくなる。
孤独だが穏やか?
誰にも顧みられず、誰かに優しくすることも優しくされることもなく、他人を思いやって悩み苦しむこともない。そんな平穏に一体どんな価値があるというのか。
だって〈王殺し〉は知ってしまった。あのきらびやかな建物の中にはひとりぼっちの少年がいることを。そして、その少年から優しく触れられ話しかけられる喜びを知り――その少年に優しくして、彼をただ守ってやりたいという狂おしく切ない気持ちまでも知ってしまった。
思えば〈少年王〉に出会う前の自分は死んだようなものだった。だが、今の〈王殺し〉はこの体の中に、心の中に、自分以外の人間の存在を強く感じることができる。それは柔らかく暖かい光で、今この瞬間たったひとりでいるにも関わらず不思議と寂しくはない。
愛おしい相手を持つということはこういうことなのだと知ってしまえばもう後戻りなどできない。今向き合っているこの苦悩から解き放たれるとしても、人間の姿のままでいられるとしても、あの不思議な声に出会う以前の自分には戻りたくない。〈少年王〉を知る前の自分のことなど、もう遠くはるか忘れてしまった。
あの声が何を望んで〈王殺し〉に務めを与えたのかはわからない。
老婆の言葉を信じるならば、〈少年王〉を殺せば次に王となるのは〈王殺し〉だ。
あの声の主はあまりに〈少年王〉が哀れだから、孤独に慣れた〈王殺し〉にその苦しみを引き継いでやろうとしたのだろうか。確かに、日々孤独に耐え心を殺してまで守ろうとしていた相手である民衆から死を突きつけられるよりは、見知らぬ獣にかみ殺される方が〈少年王〉にとっては救いがあるのしれない。そして、もし自分が肩代わりすることで彼が救われるのならば、〈王殺し〉はその先生贄として生きる苦悩をおそろしいとは思わない。
だがそれでも〈王殺し〉は諦めきれない。自分が本当に望んでいるのは〈少年王〉を殺すことではない。だってこの世界には死ぬこと以外で得られる自由があるはずだ。
だから〈少年王〉をあそこから救い出して自由にしてやること足首に絡みついた忌まわしい金色の証しを噛みちぎって、彼をこの国ではないどこか、自由に生きられる場所に逃がしてやりたいという思いが獣の心を満たした。それこそが〈少年王〉に与えられた安らぎと喜びに報いる方法であり、彼に与えてしまった恥辱へのわずかながらの罪滅ぼしになるのだと。
あと一度だけ、あの老婆にもらった魔法が使える。あの力を使えば〈王殺し〉は再び王宮に忍び込むことが、〈少年王〉に会いに行くことができる。どうにかして彼を捕らわれの場所から救い出すことはできないだろうか。簡単なことではないがやってみるしかない。
王を焼くと決めた今、王宮は獣の存在になど関心をなくしてしまったのかもしれない。逃げたときと同じ枯れ水路を通じて城壁の内側に入り込むことはそう難しくなかった。しかも、あからさまに松明を手にしたたくさんの兵士で守っているから〈少年王〉のいる建物を探すことは容易かった。
強く祈れば〈王殺し〉はいとも簡単に建物の中に入りこむことができる。昨日ここから逃げるときに力を使わずにいて良かったと思いながら、体を黄金の雨に変える。
建物の地下にある牢獄はたった一つだけ、まさかとは思うがまるで王を捕らえるためだけにしつらえられたかのようだった。小さな窓一つを除けば完全な密室で、檻の外にひとりだけ屈強な牢番が座っていた。内部の警備が薄いのは、当然〈王殺し〉にとっては歓迎すべきことだった。
突然頭上から降り注いだ黄金の雨に牢番は驚いたようにぽかんと天を仰ぐ。この瞬間こそがチャンスだった。素早く獣の姿に戻った〈王殺し〉は闇に溶けた黒い体で牢番に忍びより、むき出しの首筋に容赦なく噛みついた。
「ぐうっ」
小さなうめき声をひとつあげて、牢番はすぐに動かなくなった。完全に絶命したことを確かめてから〈王殺し〉はそっと口を離す。牙を抜くと首筋に開いた穴からは勢いよく赤い血が噴き出し、牢番の体は人形のように床に倒れた。
「……ひっ」
背後から息の詰まったような声が聞こえ〈王殺し〉は振り向く。今、自分の口元は鮮血にまみれて悪魔のような姿をしていることだろう。そして振り向いた先では悪魔を目の当たりにして〈少年王〉が震えていた。
「……ガゥ」
怖がらないで、と言ったつもりだった。だが当然伝わるはずもない。
「首を噛んだのか? 何てひどいことをするんだ」
優しい少年王は倒れた牢番に向けて鉄格子ごしに手を伸ばすが、そんなことしても無駄に決まっている。〈王殺し〉は鼻先で牢番のポケットを探り鍵の束を取り出すと、口にくわえたそれを、勢いをつけて牢の中へと投げ込んだ。獣の不器用な前脚ではさすがに鍵を開けることはできないから、ここから脱出するには〈少年王〉が自ら鍵を開けるしかない。
鍵の束を見て〈少年王〉はようやく〈王殺し〉が何のためにここにやってきたのかに気づいたらしい。
「君、これ……」
驚いたように顔を上げた少年の黒い目と獣の灰色の目が、誰ひとり邪魔立てする者のいない暗闇の中で正面から見つめあった。