30.  少年王

 突然、頭上から黄金の雨が降り注いだ。

〈少年王〉は同じ光景を前に見たことがあった。部屋の窓から外を眺めていて、王宮の窓に注ぎ込む黄金色に驚いて部屋を飛び出したところであの獣と出会ったのだった。

 まぶしさに目をしばたかせながら〈少年王〉は美しい光に見とれた。牢の前に座り込んだ牢番も同じようにぽかんと宙を眺めている。しかし光はすぐに消えて、牢の中には再び闇が落ちる。そして……。

「ぐわっ」

 何の前触れもなく、牢番が苦しげにうめく声が聞こえた。

 驚いた〈少年王〉が声のした方向へ視線を向けると、その首にがっぷりとかぶりついているのは、あの獣だった。

 前回と同じだ。あの光を見た後で、あの獣が入れるはずのないような場所に魔法のように現れる。意識を飛ばしていたから記憶していないが、もしかして、同じようにして北の塔にある祈りの間にも入り込んだのだろうか。

 だが、黄金の雨と獣の関係についてゆっくりと考える時間は与えられなかった。獣がゆっくりと口を離すと牢番の首筋からはぴゅっと鮮血が吹き出した。

 闇の中でもわかるほど勢いよく液体が飛び散る様は、人間の生命の力強さそのものだった。だが当然それは生命力の最後の輝きにすぎないので、次の瞬間に牢番の大柄な体はは床にどっと倒れて動かなくなる。

「……ひいっ」

 これまで人が死んでいるところを見たことなどない〈少年王〉ですら断言できるほど、牢番はあからさまに死んでいた。そして、その傍らに口元を真っ赤に染めて立つ獣は、ちらりと〈少年王〉に目をやると今度は鼻先で牢番の衣類を探りはじめた。間もなくそこから何やら取り出した獣は、口にくわえた何かを牢の中に投げてよこす。

 金属が床にたたきつけられる音が響き〈少年王〉はそれが牢の鍵なのだと理解した。

「君、これ……」

 暗闇の中静かに光る灰色の目を〈少年王〉は正面から見つめる。その目は部屋で一緒に過ごしていたときと同じように穏やかで優しかった。とても、人一人を噛み殺した直後とは思えないほどに。

〈少年王〉は獣に裏切られたのだとばかり思っていた。

 あのとき獣の様子がおかしかったこと、そして〈あれ〉の出現そのものが、筆頭賢者の煎じ薬と何らかの関係があるらしきことに〈少年王〉はうすうす気づいていた。あの怪しげな飲み物に何らかの作用があり、自分たちに〈あれ〉を見せて奇妙な興奮をもたらしたのではないかと。だから、獣に犯されたこと自体に怒りなどない。ただ、気まずい現場を押さえられた瞬間、獣が〈少年王〉には目もくれず逃げ出したことが引っかかっていた――いや、傷ついていた。

 だが、獣は再び現れた。投げ込まれた鍵を見る限り〈少年王〉をここから逃がすためだけに獣はここに降り立ち、牢番を噛み殺したのだ。

 指先で鍵を取る。それは冷たく、ずっしりと重い。

 獣は小さく鼻で鳴いて〈少年王〉に向けて首を振って見せた。まるで「急いでその鍵で牢の扉を開けろ。一緒に逃げよう」と言っているかのようだった。いや、きっとそう言っているに違いない。

 右手で鍵を握りしめ、〈少年王〉は自由な左手を檻の隙間から差し出す。獣は血にまみれた姿を恥じらうような様子を少しだけ見せて、しかしおとなしく首を差し出してきた。その頭を、不格好な耳の裏を、首筋を撫でてやると目を細めて気持ちよさそうに喉を鳴らす。

「君は一体誰なんだ? どうして僕を助けようとしてくれるの?」

 小さな声で問いかけるが獣は何も答えない。ただ気持ちよさそうに〈少年王〉の手に身を任せるだけだ。

「どんな場所にも金色の雨になって現れて僕と一緒にいてくれる。君は悪魔の使いなんかじゃない。まるで神様の使いみたいだ。僕がひとりぼっちのまま死んじゃうのが可哀想だから、本物の神様が君に僕を慰めようと君をよこしてくれたのか?」

 昼間バルコニーに立った〈少年王〉は、とどろくような「王を焼け」という合唱を聴いた。

 そこで初めて〈少年王〉は、毎日自分の姿を見るためにやってきて、温かい言葉をかけてくれた民のことを思いがけないほど愛していることに気づいた。王の祈りにより彼らの生活が守られるのなら、何もかもただ純粋に王へ信頼を寄せ頼ってくる人々を守るためなら、どんな辱めを受けたっていくらでも祈り続けることができるような気がした。

 だが、もう遅い。自分はその民衆をひどいかたちで裏切った。そして今、人々は〈少年王〉に怒り、憎み、その死を強く願っている。覚悟はしていたが、怒りに燃える人々を目の当たりにするとどうしようもなく苦しくなり、尚更に孤独に苛まれた。

 でも――今はまた、手のひらに獣のぬくもりがある。この世の全てを敵に回して憎まれても、この獣だけは〈少年王〉を気にかけてくれる。

「ありがとう」

 そう言って〈少年王〉は微笑んだ。そして、右手に握った鍵を差し出すと檻の外に落とした。

 獣は驚いたようにそれを再び檻の中に押し込む。〈少年王〉は再び押し返す。そんなやり取りを何度か繰り返して、最終的に〈少年王〉は言った。

「君の気持ちは嬉しいよ。でも、いいんだ。僕はもう」

 獣が驚いたように目を見開く。しかし〈少年王〉の心は決まっていた。

 自分は雨を降らせることができなかった。それどころか人々の期待を重荷に感じ、自分が王であることを心の底からは受け入れられず、ときにどこかに逃げ出したいと思っていた。その弱さこそが罪であり悪だったのだろう。

 もしも〈旧い王〉が焼かれたときと同じように〈少年王〉が焼かれることでこの国に雨が降るのならば、それこそが人々への最大の罪滅ぼしとなる。

「僕には他にはもう何もできないから、せめて最後だけでも彼らの願うようにしたいんだ。わかってくれ」

 そう言ってもう一度〈少年王〉は獣の頭を撫でた。獣は納得いかない様子で何度も腕を甘噛みしてきたが、ただ首を横に振り続ける〈少年王〉の姿に、やがて途方に暮れたようにぺたんと床に腹をつけた。

「君はもう行ってもいいよ。来たときと同じように出ては行けないの? ここにいたら明日の朝、捕まってしまうかもしれない」

 獣は首を振った。〈少年王〉にはこの獣が本当に逃げることができないのか、それともできないふりをしているだけなのかわからない。

 明日の朝、〈少年王〉を連れにくる兵士たちに見つかれば、今度こそ獣は捕まり命を奪われてしまうかもしれない。忠実で優しい獣を自分の道連れにしてしまうことは本意ではない。だがその一方で〈少年王〉の心は、深く満たされた。

 だって、自分はひとりぼっちではない。

 一生ひとりぼっちで過ごすはずだと思っていたのに、この世で最後の晩に、こうして横に温かく寄り添ってくれる体がある。〈少年王〉は今、自分自身のことを哀れだとも惨めだとも思っていなかった。心許した者に寄り添われ、愛する者のために死ぬ。それを幸せと呼ぶことは間違っているのだろうか。