31.  少年王

 牢の中がうっすらと明るくなってきた。夜が明けようとしている。やがて外が騒がしくなり〈少年王〉は迎えが来るのだろうと覚悟を決めた。

「僕はもう大丈夫だから、あの扉が開いたら逃げるんだ。わかったね?」

 牢番の死体に気づけば人々は今度こそ獣をただではおかないだろう。逃げるなら一瞬の隙をつくしかない。〈少年王〉は強い言葉で何度も言い聞かせるが、獣は不服そうな表情のままでいる。だから〈少年王〉は両手を伸ばして鉄格子越しにぐっとその首を抱き寄せ、ごく近い距離からその目をのぞき込んで念押しをした。

「約束してくれ。絶対にもう誰も傷つけないって。僕を守ってくれようとする気持ちは嬉しいけど、そのために君が人を怪我させたり死なせたりするのは嫌なんだ。お願いだから、言うことを聞いて」

 そう告げてごわごわした毛皮に口づけたとき、牢獄の外扉が開く音がした。

「陛下、お迎えに——」

 先頭に立っている衛兵隊長が驚いて身構える。密室であるはずの牢獄に大きな獣がいて、しかもそこでは牢番が血まみれで倒れて死んでいるのだ。背後に続く兵士たちも次々と息を飲んだ。そして、あれだけ逃げろと言ったにも関わらず、獣は牢の前、衛兵隊長と少年王の間に立ちはだかり牙をむき出しにしてうなり声をあげた。

「……ヴヴ……グルル……」

「なぜここに……やはり呪術で……」

 青ざめた目で彼らは檻の中の王に目をやる。おそらく〈少年王〉が悪の力で獣を召喚して牢番を殺したと理解したのだろう。今更それを肯定する気も否定する気もないが、ただ今は獣にこれ以上誰も傷つけさせたくないし、獣自身にも傷つかずに逃げて欲しい。

「構えろ、皆の者! ただの獣と侮るな!」

 隊長の声に、兵士たちは一斉に槍や弓矢をこちらへ向けて身構えた。

 後ろから見ている〈少年王〉には、衛兵隊が一歩踏み出すのに呼応するように獣の筋肉質な脚に力が入るのがわかった。いつでも前に向かって跳べるように準備している。やって来る敵に飛びかかろうとしている。

 いけない。このままだと兵士たちも獣も無傷では終わらない。どうにかしなければ。

 そのとき〈少年王〉の目に、倒れた牢番の腰巻きに刺さった護身用の小さなナイフが目にはいった。いっぱいに手を伸ばせばきっと届く。そして、衛兵隊にすべての注意を向けた獣はきっと背後の〈少年王〉の動きには気づかない。素早くしゃがみこむと鉄格子の隙間から手を伸ばしてナイフを手にした。そして、鞘を取ると迷わず刃先を自分の首筋に当てた。

「やめろ。僕の言うことを聞かないと、今ここで喉をかき切るぞ!」

 こんな大きな声をあげるのは初めてだった。緊張と恐怖で少し裏返りながらも、〈少年王〉の声は牢獄に響き渡った。

 人々が、獣が、驚いたように〈少年王〉に注目する。

 これまでただ黙って人の言うことにうなずいてばかりだった自分がこんなにも大きな声を出している。そして人々は偶像としての王ではなく、今この瞬間だけは白銀に輝く刃を喉に当てている〈少年王〉そのものに注目している。不謹慎ではあるが〈少年王〉にとって、それはちょっとした快感でありさえした。

 まず〈少年王〉は衛兵隊長に命じた。

「王の命令だ、この獣を傷つけるな。少しでも彼を傷つければ、僕は今ここで喉を切って死ぬ。昨日、民衆の総意で僕を焼くことを決めたはずだ。〈旧い王〉のように生きたまま焼かなければ、雨は降らないかもしれない」

 正直、何もかも出まかせだった。

 彼らが何をどう考えているのかわからない。絶対に自分を生きたまま焼こうとしているのかもわからない。火刑だろうが自死だろうが構わないと思われてしまえば、そこまでだ。だが幸いにもここには判断を下せる者、宰相も筆頭賢者もいない。

「ここで僕を死なせて、そのせいで日照りが続けば責任問題だぞ。特に隊長、君の命の保証はない」

 いくら焼くと決めたとはいえ、彼らにとって〈少年王〉は長い間、神として国そのものとして崇めてきた相手だ。その相手から自信たっぷりに言い切られ明らかに衛兵隊長は怯んだ。

〈少年王〉は首元の刃物はそのままに、次は獣に厳しい言葉を投げる。

「君もだ。僕の兵隊の誰一人として傷つけるな。君がもしこの頼みを聞いてくれないようなら、僕は今すぐ死ぬ」

 獣の目が信じられないといった様子で揺らいだ。〈少年王〉はこの優しく献身的な獣に対しては、彼自身の身の安全についていくら説いたところで聞いてもらえないことを知っている。だが獣が完全に捨て身になって〈少年王〉を守りたがっているからこそ、〈少年王〉には自分自身の命を人質に獣に言うことを聞かせるという方法が残されていた。

「クゥン」

「わかるだろう。誰も傷つけず、ここから出て行け」

 少しだけ甘えたような声をあげた獣に、しかし〈少年王〉は頑なな態度を貫く。

 もう十分だ。彼はもう十分自分に尽くしてくれた。これ以上の献身は必要ない。

「こいつが出て行く道を空けろ」

 そう〈少年王〉が命令すると、衛兵隊はすっと左右に分かれて獣のために道を空けた。それでも獣が動こうとしないので、〈少年王〉は自らの首筋にナイフを当てる手を軽く滑らせた。冷たい感触がして、ぬるりと血液が流れ出るのがわかる。

「冗談でもはったりでもない。さあ、十数える間に出て行け。でなければ今度はもっと深く刃を当てるぞ」

 そう言ってぐっとナイフを握り直すと、〈少年王〉の本気を察した獣はあからさまに動揺した。

「十、九、八……」

 灰色の瞳がすがるように〈少年王〉を見つめる。頼むからやめてくれ、一緒に逃げてくれ、そう叫んでいるようだった。人々は息を飲んで、見つめ合う王と獣を眺めている。

「七、六、五」

 どうしても言うことを聞いてくれるつもりはないのだろうか。だったら、言い出したことは最後までやり切るしかない。いよいよ〈少年王〉が手に力を込めようとした、そのとき獣が動いた。

 風のように素早く、獣は牢の前から跳びすさると扉の方へ向かった。驚いたように兵士たちが後ずさりして獣を通すための道をますます広く開ける。

 扉のところで一度だけ名残惜しそうに振り返った獣に、〈少年王〉は口の動きだけで伝えた。

 ――ありがとう。

 そして、悲しげな遠吠えをひとつ残して、獣は姿を消した。

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