32.  少年王

「ずいぶん長い間お世話をさせていただきましたが、陛下がこんなにお転婆てんばだったとは気づきませんでしたよ」

 腕ごと上半身をロープでぐるぐる巻きにされた〈少年王〉を一瞥して、筆頭賢者は悩ましげなため息をついた。首筋の傷は浅いが、応急処置的に巻かれた包帯には血が滲んでいる。獣が去ると〈少年王〉は約束どおり自分自身を傷つけることをやめてナイフを床に落としたが、すっかり警戒を強めた衛兵隊長により身動きできないようきつく拘束されてしまった。

 その後におもむろに連れてこられた先が王宮本館の自分の寝室だったのは意外だった。

 乱暴に床に放り出されたところで筆頭賢者が現れた。傍らでは侍女たちが次々と湯気の上がる桶を持ってきてはバスタブに湯を溜めていて、その光景だけ見ればこれまでうんざりするほど繰り返されてきた日常の続きのようでもあった。

「まさか再びあの獣を、それも牢に呼び寄せるとは。一体どのような術を使ったのですか?」

「呪術なんて何も。偶然出会ったあの獣が僕に懐いて。ただそれだけだよ。牢番が死んだことは悪かったと思っているし……もう追い払ったから獣は二度と現れない」

 二度と現れない、という部分を〈少年王〉は強調した。だから、もうあの獣を探さないで欲しい。放っておいてやって欲しい。決して追い詰めて傷つけたりしないでくれ――言葉の奥に込めた意味がわからないほど筆頭賢者は鈍くないはずだ。

「それに……僕も、抵抗する気なんてないから」

 筆頭賢者は〈少年王〉の足首にある王の証したるアンクレットにちらりと目をやる。それ以上獣の話を続けるつもりはないようで、この二日間の拘留でもつれて汚れた〈少年王〉の銀の髪に指を絡めた。

「こんな格好で民の前に連れてはいけませんよ。最後まで王は王らしくしていなければ。さあ、皆の者、普段のように、いや普段以上に陛下をきれいにして差し上げなさい」

 呼びかけられた侍女たちが「はい」と強張った声で返事をする。

 この命令を喜んでいる者など誰もいない。ただ筆頭賢者の言うこととあれば断ることはできず、彼女たちはまずは最低限の手首の拘束だけを残して〈少年王〉の体にきつく巻き付いたロープを外す。それからおもむろに服を脱がせ、バスタブに入るよう促してきた。

「……自分で入れるよ」

 彼女たちが自分の体を見ること、触れることをおそれているのだと〈少年王〉は知っている。

 北の塔での一件は今や王都の人間の誰もが知るところだ。牢番たちにとっては下卑た興味の対象になりえたかもしれないが、品のいい宮中の女性たちにとって獣と交わった少年など嫌悪の対象でしかない。しかもそれが悪を心に飼う堕ちた王だというのだから、不気味に思う気持ちもひとしおであるに違いない。だからだろう、普段は入浴の時間は侍女たちと〈少年王〉だけになるのが常だが、さすがに女たちが抗議したのか、今は部屋の中に筆頭賢者だけでなく衛兵たちもいる。

 まだ治りきっていない体の傷はピリピリとしみるものの、温かい湯に体を浸すのは気持ち良かった。〈少年王〉はうっとりと目を閉じた。

 背後からは筆頭賢者の「首は濡らすな。傷が開く」という注意の声が聞こえてきて、誰かが傷口を覆うようにそこに乾いた布を当てる。浴槽のふちに首を乗せるように言われたので素直に従うと、外側に垂れた髪を女たちが怖がりながら、しかし丁寧に洗ってから香油をまぶした。

 どうせ焼いてしまうのに馬鹿みたいだ、と内心では思っているが〈少年王〉は人々に好きなようにさせた。筆頭賢者の言う通りこれはある種の儀式で、〈少年王〉が王らしい装いのまま焼かれることを人々が望んでいるというのならば、それを叶えるだけだ。

 いつも以上に長い時間をかけて、いつも以上に豪奢な衣類や宝飾品で、〈少年王〉は美しく飾り立てられた。その美しさは、もはや王に対して恐怖しか抱いていない侍女たちですらはっと息を飲むほどだった。

「陛下、お美しい」

 やってきた宰相も、その装いを褒め称える。もちろんそこに「死に装束として申し分ない」という意味が込められていることを〈少年王〉は知っている。

「準備は? 宰相殿」

 筆頭賢者が訊ねると、宰相は満足げに首を縦に振った。

「中庭に整っている。朝一番から王都中に『王の挨拶』と同じ時間を目処に開始すると知らせを撒いているから、じき人々も集まってくるでしょう」

 そうか、自分は中庭で焼かれるのか、人々に見守られながら。

〈少年王〉はぼんやりとその瞬間を思い描いた。十字にはりつけにされた足元にはたくさんの薪があり、そこに火がつけられる。今は恐怖心はないものの、いざ炎に巻かれたときに自分は冷静に、凛々しくいられるだろうか。それともむしろ、恐怖に泣き叫んだほうが人々にとっては喜ばしいのだろうか。

「陛下」

 筆頭賢者が〈少年王〉の肩を叩いた。振り向くと、手に持った盃を差し出してくる。中身は毎日祈りの時間に飲まされた怪しげな煎じ薬だった。

 この液体を飲めばいつも〈あれ〉に襲われた。そして、盃に残った薬を舐めた獣も同じように「あれ」を見て、それどころか興奮して〈少年王〉を襲ってきた。

「これは……何だったの?」

 今まで一度として訊けなかったことを〈少年王〉は口に出して見た。筆頭賢者は少し驚いたように目の前の王を眺め、それから言った。

「夢見の実を煎じたものですよ。言ったでしょう、トランスを高めるためのものだと。嘘はついていません」

「でも、それを飲むといつも——」

 それ以上口にするのはさすがに憚られて〈少年王〉は黙り込む。しかし何もかも知っていたかのように筆頭賢者は薄く笑った。

「もちろん、多少の催淫作用は否定しません。大丈夫、どういう夢を見ていたかまでは存じませんが、『そういう』夢を見ること自体は陛下のお年頃の男子としては健康的なことですよ。お目覚めになる前に体はきれいに清めさせていただいておりました」

〈少年王〉は赤面するような恥ずかしさと、謎のとけたあっけなさにうつむいた。筆頭賢者は暗に、〈あれ〉も、〈あれ〉にされる行為も何もかもが〈少年王〉自らが作り出していた夢だと言っているのだ。そして、毎日放ったもので汚れた体を見て清めていたのだと。

「……今日は必要ないよ」

 筆頭賢者の話を聞いた〈少年王〉は首を左右に振って盃を断る。これまでずっとあの煎じ薬を飲むことで淫夢を見ていたのだ。そんなもの、あとは火刑に処されるだけの自分が今さら飲む必要はないに決まっている。

 だが老翁は少しだけ優しく哀しい顔をして、〈少年王〉の手の中に半ば無理やり盃を押し込んだ。

「陛下、あなたには色々な思いもおありだろうが、我々もあなたを憎いと思ってお仕えしてきたわけではありません。いつもよりも薄く煎じているから、これを飲んでも陛下がおそれていることは起こりません。ただ、恐怖や苦痛を強く感じずにすむだけです」

 お願いです、と小さな声で付け加えられれば、筆頭賢者なりの同情にありがたさを感じ、結局〈少年王〉は盃に口をつけた。ちょうど中身を飲み干すと同時に宰相が言う。

「では陛下、お時間です」