だが、冷たい感触がふたつ、みっつと続くにも関わらず〈少年王〉のことで頭がいっぱいになっている〈王殺し〉はすぐには気づかなかった。
先に声を上げたのは広場に集う人々の方だった。突然鳴りだした北の塔の「鳴らずの鐘」に呆気にとられていた彼らは、自分たちの顔をぽつぽつと水滴が打ちはじめると驚き、天を仰いだ。
「雨だ……」
疑い混じりのつぶやきは、すぐに歓喜の叫びに変わる。
「おい、雨だ、雨だぞ!」
人々の歓声に促されるように雨粒は勢いを増した。
ついさっきまで真っ青だった空は、いつの間にか真っ黒く分厚い雲に覆われている。強い雨はあっという間に土砂降りへと変わり、激しい雨で周囲がまともに見渡せないほどになった。普段であれば恐怖を感じるほどの豪雨だが、長い干ばつに苦しんだ人々は痛みを感じるほどの雨粒にただただ喜びの声をあげた。
降り出した雨は〈王殺し〉の足下で燃え上がっていた炎をも消した。これで〈少年王〉が焼かれることはない――ほとんどあきらめかけていた〈王殺し〉は、思わぬ天からの助けに一気に力を取り戻し、助走をつけて十字架に飛びかかる。するとめきめきと音を立てて木でできた十字架は根元から折れた。
「ギャンッ」
磔にされていた〈少年王〉が十字架もろともに倒れたので〈王殺し〉は慌てた。幸い怪我はないようだが、少年の目は死んだように閉じたままで身動きひとつしない。とにかく縄を解かなければどうしようもないので必死に爪と牙で縄の結び目と格闘し続けると、やがて一本、二本と縄が切れた。
自由になったにも関わらず、〈少年王〉は目を閉じたまま動かない。痛みを感じるほどの雨が体に打ち付けているのにぴくりともしないので、まさか煙を吸って具合でも悪くしたのではないかと〈王殺し〉は不安に襲われる。だが、近寄って頬を舐めると〈少年王〉は弱々しく目を開き、驚いたようにつぶやいた。
「あ、雨……」
色を失った顔にうっすらと微笑みが浮かぶのを確認して〈王殺し〉は心底安心した。そして〈少年王〉のびしょびしょに濡れた服を咥えてぐいぐいと引っ張る。
もういい。理由はわからないが、とにかく雨は降った。〈少年王〉がこれ以上自らを責める必要はないし、これ以上人々に対して重責を負い続ける必要もない。口がきけたらそう言っただろう。いや、なぜだか今〈王殺し〉は自分の声が、言いたいことが〈少年王〉に届いているような気がしていた。そしてそれは思い違いではなかった。
「うん、そうだね」
微笑んだままゆるゆると上体を起こした〈少年王〉が、〈王殺し〉のずぶ濡れの毛皮を撫でた。
今ならば激しい雨が二人の姿をかき消してくれる。〈王殺し〉は姿勢を低くすると〈少年王〉に自分の背につかまるように身振りで促した。しっかりと抱きついてくれれば彼を乗せて走ることができる。
王宮の外へ、王都の外へ。
どこか遠い、自由な場所まで。
ひどく軽いようでとても大切な重み。それを背中に感じ、腹にしっかりと回された腕を確認してから〈王殺し〉は走り出した。やがて王宮を出て、ひとけのない王都の目抜き通りを駆け抜けようとしたところで、天が割れるような轟音が響いた。
驚いて立ち止まった〈王殺し〉の背中で〈少年王〉が呆然とつぶやいた。
「雷だ。北の塔が、燃える……」
振り返ったのはその一度だけ。あとはただ、走り続けた。誰にも邪魔されず、〈王殺し〉は〈少年王〉を自由にするためにただ走り続けた。
たどり着いた森には見覚えがあるような気もしたし、はじめてくる場所であるような気もした。どっちだって構わない。たとえどんな場所だろうと、〈少年王〉と一緒であればそこは〈王殺し〉にとってまったく違った景色に見えてくる。
激しい雨はまだ降り続いている。王宮にいるときはいい目隠しになってくれたが、今となっては〈王殺し〉は、背中の〈少年王〉の体が冷え切っているのではないかと気がかりでたまらない。森の暮らしに慣れた者特有の勘で、ようやく人ひとりと獣一匹がはいれるだけの洞穴を見つけた。傾斜しているのか、少し奥に進めば地面が乾いている。
〈少年王〉を降ろし、その傍らに寄り添う。どちらの体も冷え切っているが、ばらばらにいるよりは寄り添っている方がまだ少しはましであるに違いない。そうして少し落ち着くと、〈王殺し〉は急激に痛みと寒気に襲われはじめた。
逃げるのに夢中で忘れていたが、後ろ脚や尾はひどく焼け焦げ、ところどころ黒い毛皮が剥がれ落ち、火傷で赤く腫れ上がった皮膚が見えている。それに加えて背中には衛兵に槍で刺された傷もある。よく見ると〈王殺し〉の背中にずっとしがみついていた少年王の衣類は、溢れる獣の血でべっとりと汚れていた。
「ひどい怪我。どうしよう」
動転して立ち上がろうとする〈少年王〉を、〈王殺し〉は服の裾を噛んで引き留める。この少年だって疲れ果てているのだ。こんなひどい雨の中、冷え切った体で外に出たところで医者などいるはずもないし〈王殺し〉を救えるはずもない。そんなことよりも今はここに一緒にいてくれるほうがずっといい。
喉を鳴らして甘えるように側頭部をすりつけると、〈王殺し〉の気持ちが伝わったのか〈少年王〉はぺたりと座り込んで、ぎゅっと抱え込んだ頭に頬ずりをした。
できることならば人間の声でありがとう、と言いたかった。出会えたこと、優しくしてくれたこと、今一緒にいてくれること。〈少年王〉は何度も〈王殺し〉に感謝の言葉を伝えてくれた。だが、彼が感じてくれている何倍、何十倍もの気持ちが〈王殺し〉からあふれ出していることは伝わっているだろうか。誰かと一緒にいたいと思うこと、誰かを愛おしいと思うこと、そして生きる意味を教えてくれたことへの感謝の気持ちが。
「まだ血が止まらない」
じわじわと血が滲み続ける〈王殺し〉の背中を手のひらで押さえながら〈少年王〉は泣きそうな声を出した。
笑ってくれ、と〈王殺し〉は訴える。そんな悲しそうな顔でなくて、見たいのは笑顔なのに〈少年王〉はどうしても笑ってくれない。
出血で感覚が麻痺しているのか痛みは感じない。そのうち意識も遠くなりはじめる。できるだけ目は閉じたくない。目を閉じると、二度と開けないかもしれないから〈王殺し〉は必死で両目を開け続けようとする。少しでも長くこの少年の顔を見つめていたい。しかし弱り切った体には限界が訪れる。いよいよまぶたが閉じようとする瞬間、〈王殺し〉は〈少年王〉の手に金色の細い紐が握られているのを見た。
この少年を長い間戒めていた「王の証し」の残骸。ちぎれた金色のアンクレット。それはよく見ると金属でも糸でもなく、細い枝を編んで作られたものだった。
どこかで見たことのある金色に輝く枝。西の果ての森であの日不思議な声を聞いたときに、まだ人間だった〈王殺し〉の頭上で光り輝いていたヤドリギ――。そういえば昔、楢に宿るヤドリギは神聖な力を持つのだと集落の老人から聞かされたことがある。もしかしたら〈少年王〉の孤独を知ったヤドリギが、遠く離れた寂しい魂にそれを伝えようとしたのだろうか。
すでに〈王殺し〉の目は見えていない。だが、耳は聞こえていた。そして〈王殺し〉の不格好な小さな耳は、以前聞いたのと同じ声を聞いた。
――ずいぶん遠くまでやってきましたね、〈王殺し〉よ。
自分は夢を見ているのだろうと思った。あの日森で聞いた不思議な声が今再び〈王殺し〉に向かって話しかけていて、しかも〈王殺し〉は人間の言葉で返事をすることができるのだ。しかも、さっきまでひとつ息を吸うたび胸が破裂しそうな痛みがあったのに、呼吸はすっかり楽になっている。
〈王殺し〉は言った。
「ああ、遠くまできた。だが、悪いがあんたとの約束は果たせなかった。俺はこの小さな王を殺す気はない。人間の名前も、姿もいらないんだ」
だが、意外にも声はさも可笑しそうに笑い出した。
――妙なことを言う。おまえは約束通り王を殺したではありませんか。
その言葉に驚き、〈王殺し〉は泣きそうな顔で座り込んだままの〈少年王〉を確かめる。寒さと疲れで顔は普段以上に真っ白く、紫色の唇は震えている。だが、死んではいない。
〈王殺し〉は〈少年王〉をあの王宮から救い出した。殺してなどいない。
「何を言う。王ならばここにいる。弱ってはいるが、死んでなどいない!」
声の不穏な物言いに反感を覚え、〈王殺し〉は強い口調で言い返す。すると声は諭すように続ける。
〈王殺し〉よ、お前も見ただろう。王は焼かれぬまま雨は降った。北の塔は燃えて、新しい王が鳴らす鐘はない。王が祈りを捧げる部屋もなくなってしまった。
「それが何だと言うんだ?」
この国が北の塔を失ったから、新しい王を立てられなくなったからだというのだろう。そんなことには一切興味はない。〈王殺し〉にとって大切のはこの〈少年王〉ただ一人だ。だが、理解できないことばかり告げられ苛立つ〈王殺し〉に、声は駄目押しのように告げた。
――人々の歪な信仰は破れた。彼らはもう新しい王を立てることはできない。わかるだろう、この国の王は死んだ。そして、殺したのはお前だよ〈王殺し〉。そして、それこそがおまえの使命だった。