35.  王殺し

 鳥の声で〈王殺し〉は目を覚ました。

 いつの間にか夜になり、そして朝が来ていたようだ。洞窟の入り口から太陽の光が差し込み〈王殺し〉と〈少年王〉のいる場所もうっすらと明るくなっている。

 固い地面に横たわり、しかし疲れ果てているからか〈少年王〉はすやすやとよく眠っている。再びこんな近くで寝顔を眺めることができるとは思わなかった。言葉にならない幸福感に〈王殺し〉は眠る少年の頬を舐めようと顔を寄せ、そこで、異変に気付いた。

 言葉を話せない獣にとって舐めることは数少ない好意を表す手段だった。〈少年王〉の頬や手を舐めたのは一度や二度ではない。だから距離感が違うのはすぐにわかった。そして何気なく自分の体に視線を向けると――そこには、黒く醜い獣の姿はなかった。代わりに、獣に姿を変えられるまで二十五年間付き合って来た、人間の男の体があった。

「……まさか」

 思わずつぶやき、自分の口から人間の言葉が出たことに驚いた。それどころかあんなにひどい火傷を負い背中を深く刺されたにも関わらず〈王殺し〉の脚にも背中にも傷跡は見当たらない。体はあの日、西の果てで不思議な声を聞いたときとまったく同じ状態に戻っていた。

 意識を失う前に夢を見たような気がした。あの日王殺しを命じてきた不思議な声から「お前は約束を果たした」と言われる夢。

 あの声の命じた「王殺し」とは、このいたいけな〈少年王〉を殺すことではなく、この国の歪な信仰によって作られた「王」の概念そのものを殺すこと。少年は「王の証し」を失いもはや王ではなくなった。王宮の北の塔は祈りの間もろとも燃え、王を焼かずとも雨が降ったことで人々の信仰は崩された。それにより〈王殺し〉は約束を果たしたのだと、声は確かにそう言った。そして事実、今〈王殺し〉は人間の姿を取り戻した。

〈少年王〉を殺すことなしに、失ったものを取り戻した。思いもよらない旅の結末に一瞬喜びが湧き上がるが、次の瞬間〈王殺し〉は不安に襲われた。

 人としての自分の姿は一般的な人間には威圧感を与えてしまうほどの大男で、しかも醜い。あの西の果ての村でも、そして生みの親からですら疎まれ、誰からも愛されずに生きてきた。〈少年王〉が目を覚ませば、きっと醜くおそろしげな大男が隣にいることに驚き恐怖すら感じるだろう。

 同じ醜さでも人と獣では違う。〈少年王〉が心を開いてくれたのも、優しくしてくれたのも、何もかも〈王殺し〉が獣の姿をしていたからなのではないか。不安は少しずつ確信に変わり〈王殺し〉は自分を人の姿に戻したあの声の主を恨んだ。

 もはや〈王殺し〉の世界は〈少年王〉のためだけにある。人の姿で彼に拒絶されるより、獣の姿で彼と一緒にいる方がどれだけ幸せなことか。

 今なら逃げられる。〈少年王〉に拒まれ傷つく前に姿を消すことができる。〈王殺し〉はぎこちない動きで立ち上がろうとした。だが、獣の体に馴染みすぎていたのか、人の体を滑らかに動かすことができずに思わず足元の石を蹴飛ばしてしまう。

 勢いよく飛んだ石が、洞窟の岩壁に跳ねて思いがけない大きな音を立てた。しまった、と思うがもう遅い。〈少年王〉が眠たげな目をゆっくりと開き、その大きな黒い瞳が〈王殺し〉を捉えた。

「あ……」

 声が出なかった。何を言えばいいのかわからない。どう振る舞えばいいのかわからない。まさか自分があの獣だったと伝えたところで信じてもらえるはずもないだろう。〈王殺し〉の背中を冷や汗が伝い、少しでも〈少年王〉を怖がらせたくなくて一歩、二歩と後ずさりする。

 だが、きょとんとしたようにこちらを眺めている〈少年王〉は、怯えることも逃げることもなかった。気まずく視線をそらそうとする〈王殺し〉の瞳を追いかけるようにじっと見つめ、言った。

「……最初のときと同じだ」

 そして、いつものあの笑顔を見せる。

「王宮の廊下で真夜中に会ったとき。あのときも驚いて、怯えていたよね。大丈夫、何もしないからそんなに怯えないで」

 この少年は何を言っているのだろうか。

 この姿を見ただけで〈王殺し〉だと、あの獣だと気づくはずなどない。なのに〈少年王〉は自信に満ちた顔で立ち上がり、〈王殺し〉の腕を引き軽くしゃがませると正面から目をのぞき込んできた。

「君だってこと、わかるよ。だってこんな灰色の目、他に見たことないもの。この髪だって同じだ」

 頭に手を伸ばし黒く硬い髪を撫でる手は優しくて、〈王殺し〉は獣の姿でいたときと同じようにうっとりと酔いしれた。それでもどうしても不安が拭いきれず小さな声で「見ないでくれ」とつぶやく。

「どうして?」

 無邪気に訊き返す美しい少年が少しだけ憎らしい。だが〈王殺し〉は正直な気持ちを口にした

「俺は醜い。獣の姿でも醜かったが、人の姿ではなおさら不恰好で……お前のような美しい人間とは……」

 しいっ、と〈少年王〉は〈王殺し〉の唇に人差し指を当てて囁いた。

「そんなこと言わないで。君の灰色の目は、僕が今までに見てきた何よりもきれいなのに」

 魔法にかけられたような気分だった。

 あの不思議な声にかけられた魔法は解けたのに、この少年はいとも簡単に〈王殺し〉に新しい魔法をかける。この世で誰に醜いと罵られても、彼がこの目を美しいと言って気に入ってくれるならばそれで構わない。彼がもしも自分を――愛してくれるならば、この世の他の人間すべてから疎まれ嫌われたって構わない。

「……ありがとう。俺に優しくしてくれて」

 ずっと言いたくて言えなかった言葉を〈王殺し〉はやっと口にして、目の前の少年を二本の腕で思いきり抱きしめた。