殺風景な建物を出て道なりに歩き、たばこ屋の角を折れる。しばらく歩けば大きな公園に突き当たり、池に集うさまざまな姿かたちの水鳥や、芝生と木々の間をせわしなく駆け回るリスの姿を眺めながらそこをぐるりと一周するのがレオの日課だった。
連合軍の空爆でミュンヘンの約三分の一が焼け野原になり今も復興なかばだと聞いているが、郊外のこの辺りは被害を免れ、慎ましい街並みは一片の暗さもないのどかさを漂わせている。
毎朝の散歩をはじめて半年ほどが経つ。
木々の葉が色づきはじめた頃に「シャツ一枚じゃ寒いだろう」と弟のニコが病室に上着を持ってきた。古ぼけてはいるが質の良いウールの外套は、戦争と病気で痩せた体には胴がぶかぶかに余っているもののレオの背丈にぴったりで、物資不足のご時世にどこからこんな物を手に入れたのかをいぶかしくも思った。しかし疑問を直接ニコにぶつけるにはなんとなく気がとがめ、結局レオは黙ってそれを受け取った。そういえば、昨年の冬はまだ外に出られるような状態ではなかったから厚手の上着など必要なかったのだ。
色鮮やかだった木々は葉を落としてすっかり寂しい姿になり、早くも訪れようとしている冬の冷たさは、顔や手といった皮膚の露出した部分を柔らかく刺す。この景色も今日で見納めだ。
最初は杖をついて、息を切らしては休み休み歩いていた。今では多少ぎこちないながらも二本の足で、息を乱すことなく歩ききることができる。散歩コースを一周するのにかかる時間もずいぶんと短くなった。
左脚ひざ下の骨が無残に砕けていて神経にも損傷があるから、どれだけ機能が元に戻るかわからない――そう言われたのをまるで昨日のことのように思い出す。今の自分が医者の予想をはるかに超えて回復していることは確かだが、これ以上良くなるのかどうかはわからない。頭と脚のひどい怪我だけでなく結核まで患っていて、いっときは肺を片方失うことも覚悟したものの、結局レオの胸にメスが入ることはなかった。
脚に多少の不自由が残る程度であれば、まだましな方なのかもしれない。かろうじてではあるけれど五体満足な体。たった一人ではあるけれど血の繋がった弟。先の戦争で何もかもを失った人も多くいることを思えば、これでもきっと恵まれている。
「よお」
呼びかけてくる声に顔を上げると、ベンチに座る初老の男がレオに向かって手を振っていた。
連日散歩をしているうちに顔見知りになった彼の名はクラウスという。彼は凍える真冬以外は毎日、公園入り口にあるキオスクで新聞を買ってベンチでくまなく目を通すことを習慣にしている。
薄くなった頭髪をきれいに撫でつけ、いつだって整った清潔な服装。柔和な顔立ちのクラウスだが、額や眉間には苦悩を思わせる深い皺がいくつも刻まれており、どこかちぐはぐな印象を与える。
「おはようございます」
レオが挨拶を返すと、クラウスは手に持った新聞紙を広げ掲げて見せた。
「おい、こいつを見たか?」
普段より少し高い、興奮したような声色だ。
それは一見して奇妙な紙面だった。文字は少なく、ほぼ正方形に近い写真ばかりが何枚も並んでいる。写真にはそれぞれ異なる男が写っているが、共通しているのはどれも目を閉じて横たわっていることだ。
見出しにさっと目を滑らせ、レオはそれが何かを知った。
第二次世界大戦中に行われたナチスドイツの戦争犯罪を裁くために一年ほど前にはじまったニュルンベルク国際軍事裁判の判決が出たのは、約半月前のことだ。
アーリア人種による単一民族支配の巨大帝国を夢見て多くの国を侵略し、ユダヤ人をはじめとする彼らのいうところの劣等民族を虐殺し、廃墟と死体の山を築いたとして責任を問われている国家指導者たち。主要戦犯として起訴された二十二名の中には逃亡により欠席裁判とされた者や自死した者もいたため、死刑判決が出された十四名のうち実際に絞首刑に処されたのは十二名だった。かろうじて死刑を免れた面々も、これからおのおの刑務所へ移送されていくのだという。
まるで眠っているかのように、どこか無垢な表情にすら見えるあれは元ポーランド総督のハンス・フランク、処刑時にアクシデントでもあったのか、顔面をひどく損傷しているのは元内務大臣のヴィルヘルム・フリック――ほんの一年半前まで権力の中枢にいた面々が今ではこうして、どこか見世物じみたやり方で糾弾され、罰される。
戦勝国や侵略された国々、迫害された人々の怒りは凄まじい。それどころか、少し前まで第三帝国に熱狂していたドイツ市民すら、ヒトラー率いるナチ政権は実のところは不当なる政権簒奪者で、国民を騙して戦争犯罪に加担させたのだと今では怒りに燃えているのだ。
「ああ、執行されたんですね」
自分でも驚くほど感情の込もっていない声だった。口に出した後でクラウスが奇妙な表情をしたことに気づき内心後悔する。もう少しどうかした反応をすべきだったのではないか。何しろ、レオ自身も彼らの起こした戦争で被害を負った者の一人なのだから。
短くなったたばこから口を離し、クラウスは何度か大きな煙を吐き出した。レオはそれを自分に対する失望のため息ではないかと疑い、居心地の悪い気分になった。
「ああ、やっとだ。奴らのやったことに比べたらこの程度じゃあ全く釣り合わないが。山ほど殺されて、あんただって若いのにそんな体にされちまって」
クラウスは、まだ滑らかには動かないレオの左膝に目をやる。
当初は挨拶を交わすだけだったが日を重ねるうちに世間話をするようになった。ずいぶん後になってからクラウスは、当初レオが何者なのかを見定めかねていたのだと告白した。出自を探る最初の質問が「お前さん、国防軍かい? どこの戦線でやられてきたんだ」だったのも、レオの明るい鳶色の髪と緑の瞳からすれば無理もない。
収容所です――そう答えたときに目を丸くした彼の顔を今もはっきりと思い出すことができる。レオは、ナチスドイツの強制収容所が解放された際に、大怪我を負って意識を失っているところを米軍に救助された。
今でもこの国にはユダヤの血統に嫌悪感を抱く人が少なくないであろうことは承知している。しかしレオはそれを自ら吹聴して回る必要もないものの、わざわざ隠すこともないと考えている。
相手が誰であろうと、聞かれれば特段の葛藤もなしに収容所解放者であることを明かそうとするレオに、神経質なニコはいつも「やめてよ」と不安そうに目を泳がせる。
兄さんはわかってないんだ、何も。そう言って小さな唇から吐き出されるため息を耳にするたびに、レオはもどかしさに苛立つ。何もわからないのは、何もわからなくなったのは、俺のせいじゃない。
幸いクラウスとの出会いにおいては、レオの出自はむしろ好感を引き出す結果となった。なぜならば、クラウスもまたユダヤの家系に生まれた人間だったからだ。だが、クラウスは運良く由緒正しいアーリア人であるドイツ市民の妻を持っていたため、戦時中は逮捕も収容所送りも免れた。
とはいえ絶滅すべき人種と名指しされ人々から白い目で見られ、日々将来への不安と恐怖に苛まれるだけでも相当な辛さであったことは間違いなく、その苦悩こそがクラウスの顔に深い皺となって刻まれている
「奴らに裁きが下ったっていうのに気持ちが動かないか。まあ、お前さんはここをやられちまってるみたいだから、感情が追いつくのにもう少し時間がかかるのかもしれないな」
クラウスがこめかみの上をつついてみせるのに、曖昧な笑みでレオはうなずいた。
レオには病院で目を覚ます以前の記憶がない。おそらく頭部に負った傷が原因なのだろうが、目を覚ましたときには、生まれてから戦争が終わるまでの記憶は一切失われていた。だから日々明らかになる絶滅収容所の悲惨な実態を見聞きしてもどこか他人事のようだし、自らを迫害したはずの第三帝国やその国民への恨みも憎しみも実感を伴わない。
「まあ、弟さんは喜ぶだろうから、今日は祝杯でもあげるといい。俺も今日は秘蔵のワインを開けることにするよ」
「そういえば、ここに来るのも今日が最後なんです」
「退院か?」
「ええ。体もずいぶん動くようになったし、肺もすっかりきれいになったそうです。まあ、頭の方が相変わらずですけど。病院はもう少しいてもいいと言ってくれているんですが、弟がどうもせっかちで」
支援環境の整った病院を出れば生活の心配をしなければならない。ニコはともかく、頭にも体にも問題を抱えた自分がまともに働けるとは思えないレオとしては、早期の退院には後ろ向きなのだが、普段物静かで穏やかな弟がこの件に関しては思いもよらない頑固さを見せている。
ウィーンに行けば知人の伝手で部屋と仕事を紹介してもらえそうだからとどうしても譲らないニコの前に、折れたのはレオだった。
「大丈夫か? ウィーンにはソ連の赤軍がいるんだろう? ポーランドでもあちこちでユダヤ人を狙った虐殺が起きているって聞くし。ドイツだって、ここはまだマシだが、ソ連の占領区域はひどいって噂だぜ。まったく、帝国がなくなったからって、そう簡単に生きやすくはならないもんだな」
一つ大きく息を吐くと、クラウスは腕につけていた時計をおもむろに外してレオの手に握らせた。
「おまえさんとは毎日ここで会って話すだけだったが、これも何かの縁だ。たいしたものじゃないが、餞別にとっておいてくれ。何かの時に少しの金にはなるだろう」
純金がふんだんにあしらわれた一見して価値のあるとわかる時計を受け取りかねていると、クラウスはそれを無理やりレオのポケットにねじ込む。そして低い声で、懇願するように続けた。
「これは俺の自己満足なんだ。頼むから受け取ってくれ。少しでも罪滅ぼしをしている気分にさせてくれ」
どうしようもなかったのだ。クラウス一人が声を上げたって何も変わらなかった。
例えば彼が同胞を救おうと行動したとして、その結果はおそらくただ死体が一つ増えただけで終わった。そういう時代だった。それでも彼は日々新聞やニュース映画で死んでいった同胞を目にするたび、収容所から出てきたボロボロのレオと顔を合わせるたび、無傷で生き延びた自分を恥じて苦しんでいるのだ。
レオは二度と会うことはないであろう男に礼を告げポケットに金時計をしまうと、彼とかたく手を握り合ってから公園を後にした。