在宅勤務の栄が羽多野にいちゃもんをつける小話(前編)


「心を埋める」羽多野×栄です。「心を埋める」シリーズは現実世界の時間軸とリンクしていません(改元もBREXITもスルー)ので、外出自粛ネタのこちらは「IF」としてお楽しみください。


 がたんとダイニングの椅子を引く音がした。

 トイレにでも行くのかと思って顔も上げずにいたら、どうやらこちらに用事があったらしく足音は近づいてくる。リビングのセンターテーブルで長身の背中を丸めるようにラップトップに向かい合っている羽多野の背後までやってきた谷口栄が、思い詰めたような声を出した。

「羽多野さん、俺ずっと我慢してきたんですけど、もういい加減限界です」

 お、と思って羽多野はキーボードを叩く手を止める。

 昨今の情勢下で、もともとリモート環境の整っている羽多野の勤務するシンクタンクは早々と社員全員を対象に完全なるワーク・フロム・ホーム、いわゆるところの在宅勤務を決定した。

 一方で大使館に勤務する栄は現地の情報収集やら日系企業や日英貿易への影響調査など忙しく、仕事柄完全に在宅というわけにもいかない。館でなければできない仕事をするために最低限の出勤をしつつ、週の半分程度は自宅で作業する日々を送っている。

 我慢、限界、という言葉にはまったくもって同意する。

 いくらこれが在宅「勤務」で、一応は仕事開始時間も終了時間も管理することになっている――とはいえ恋人同士が始終ふたりきり同じ空間にいれば、たとえ平日の業務時間中であろうと、ちょっといちゃいちゃしたいなと欲が出るのも当然の流れである。理性と自制の塊のような栄だってさすがに甘い気持ちに負けたのか、と振り返ったところで彼の表情が羽多野の想像とは真逆の厳しいものであることに気付いた。

 照れ隠し。いや、多分違う。

 そして栄はすう、とひとつ大きく息を吸ってから、告げる。

「しばらく、自分の家に帰っていてもらえませんか」

「家って、俺の家はここだろ?」

 栄の言わんとする意味がわからず床板を指し示すと、並外れて沸点の低い恋人はなぜだかこめかみを震わせて低い声を出した。

「は? 何言ってるんですか。ここはです。俺の名前で契約して、俺が家賃を払って、俺がひとりで住んでいるって職場に申請している部屋です!」

「つまり?」

「あるでしょ、あなたには自分名義で借りてる部屋が!」

 羽多野は絶句した。

 もう数ヶ月も前に終わったはずの部屋の賃貸論争をここでまた蒸し返してくるとは。一緒に住むのが前提で、あくまで職場に男との同棲を隠したいという栄の強い意思を尊重するために、ここの契約も家賃もすべて栄に委ねてある。その上で「アリバイ」として羽多野は近所に小さな部屋を借りているのだが、もともと居住する気などさらさらないそこは古ぼけたワンルームの地下室で、家具すら置いていない。

 栄が突然怒り出すのも理不尽なことを言い出すのも通常運転ではあるのだが、こっちだって家に籠りっぱなしでストレスが溜まっている。理由も言わなければお願いモードでもなく、一方的に攻撃的な言葉で「出て行け」に等しい言葉を投げかけられて黙っていられるはずがない。

「谷口くん、人にものを頼んだり交渉したりするなら順序ってものがあるだろ。いきなり感情的になって怒鳴られたって、こっちはわけがわからないって何度言えばわかるんだ」

 カチンとくる気持ちを抑えながら、それでもどうしたって苛立ちは滲む。そして、この世で自分ほど利口な人間はいないと信じて生きている栄は当然ながら、「羽多野ごときに」説教されることを死ぬほど嫌っている。

 続く言葉はたったひと言。

「目障りなんです」

「……め、目障り?」

 栄の暴言にはいい加減慣れたはずの羽多野も思わず言葉に詰まってしまう、そのくらい強烈な一撃だ。同棲――に至る前のなしくずし同居期間も含めれば、すでにふたりはゆうに半年を超える期間一緒に生活している。それを今になって「目障り」とは。

 言葉を失った羽多野が言い分を理解したと勘違いしたのか、栄はまるで悲劇のヒーローのようなため息をついて続けた。

「計算外ですよ。寝室さえ分かれていればなんとかなると思ってたのに、まさかお互い家で仕事する日がこんなに増えるなんて。ダイニングテーブルとリビングで一応棲み分けてるにしたって、やっぱり他人の気配って邪魔なんですよね」

「おい、待て。目障りで邪魔って誰がだ」

「まさか自覚がないんですか?」

 まっすぐに羽多野の目を見て聞き返してくる栄は、これっぽっちも自身の正当性を疑っていない。

 確かにもう一ヶ月以上、週の半分は同じ空間で仕事をしている。とはいえ特に栄の仕事は多くの機密を扱っているし、羽多野にだって仕事上の守秘義務はある。この家にあるふたつのテーブル――ダイニングテーブルとリビングのローテーブル――を分け合うことにしたときに、より使い勝手の良いダイニングテーブルを栄に渡したのは、忙しい栄を思いやってのことだった。

 それだけではない。オンライン会議のときは栄に迷惑をかけないよう寝室に閉じこもっている。サイドテーブルにラップトップを置いて明らかに「書斎」ではない場所で仕事をしている羽多野に同僚たちは不思議そうな顔をするが、それもこれも気難しいパートナーとの平穏な生活を維持したいがゆえの努力だった。

 ――にもかかわらず「目障り」に「邪魔」ときた。

 十年近くも議員秘書をやっていたから、羽多野はそれなりに国家公務員の働き方に通じている。霞ヶ関では蒸し暑く騒がしく狭苦しい大部屋に大人数が押し込められていたはずだ。大使館の環境はそれよりはずっとましだが、書記官クラスでひとり一部屋もらえるほどスペースに余裕のある館は少ない。普段の環境との落差という意味でいえば、ピカピカのオフィスビルに入居するシンクタンクで、壁は間仕切りに毛が生えたようなものとはいえ一応個室を与えられている羽多野の方がよっぽど大きい。

「第一、君の職場だって個室じゃないだろう? 普段から人と同じ空間で仕事をしてるのに俺にばかり文句を言うのは八つ当たりだ」

「全然違います。久保村さんもトーマスも羽多野さんみたいには……」

「俺がいつ谷口くんの邪魔をした?」

 羽多野も面識のあるトーマスは、確かに生真面目で弁えているタイプなので仕事の邪魔はしないだろう。しかし厚生アタッシェである久保村については――写真でしか見たことはないが、小太りで子煩悩の既婚者ということで、とりあえずでの警戒はしていない――しょっちゅう「仕事中に食い物の話ばかり」「甘いものを持ってきてはお茶をしたがる」と愚痴をこぼしているではないか。その久保村よりは、高さの合わないセンターテーブルで我慢しながら黙って仕事に勤しんでいる自分の方がよっぽどオフィスメイトとしては望ましいに決まっている。

 とはいえ、栄の意味不明なイチャモンなど日常茶飯事。それを軽く聞き流せない時点で、自分自身もこの異常事態に神経がすり減っているのだろう。羽多野は恨めしい顔で、「COVID-19」の文字で埋め尽くされた新聞を眺めるのだった。

→後編