在宅勤務の栄が羽多野にいちゃもんをつける小話(後編)

←前編

 羽多野が簡単に出ていくことはないと察したらしく、栄は当てつけがましくため息をついて見せる。

「わかりました。だったら俺があなたの借りている部屋に行きます」

 どこまで本気なのか、それとも「そこまで思い詰めるほどおまえと同じ空間で仕事をするのが不愉快だ」というアピールのつもりなのかはわからない。ともかくあまりに好戦的な態度に羽多野も思わずちくりと言い返す。

「そこまで言うなら鍵を渡してもいいが、あそこは日の当たらない地下のワンルームだし風呂場はカビだらけだったぞ」

「……」

「そういえば内見に行ったとき、部屋の中でムカデが死んでたっけな。窓の建て付けが悪くて、どこからか入ってくるらしい」

 栄の表情が凍りつき、続いてふてくされたように頭を振ると「もういい」とつぶやく。衛生面にうるさい男なので、さすがに虫の入ってくるカビだらけの地下室で暮らす勇気はないようだ。

 羽多野相手に憂さ晴らしをしようとしたところで思うような成果は得られないことに気づいたのか、栄は凝りをほぐすように肩を回しながらキッチンへ歩いていく。お茶でもいれて気分転換するつもりなのだとすれば、その方がよっぽど建設的だ。

 電気ケトルに水を入れている背中をじっと眺める。

 さすがに寝巻きとはいかないものの出勤時よりはリラックスした格好でパソコンに向かう羽多野と違い、栄は在宅勤務の日も勤務開始時間になると、ビジネス用のシャツとスラックスを身につけてダイニングテーブルにする。さすがにネクタイまでは締めていないものの、その生真面目さには思わず苦笑がこぼれるほどだ。ヘアサロンも軒並み営業を取り止めているので、伸び過ぎた髪を整髪料でなんとかぴしっとセットしようとしている努力も涙ぐましい。

 そう、在宅勤務でもちっとも気を抜くことができない栄は、羽多野以上に疲れているのだ。弱音を漏らすことはないが、世界的に混乱が広がる中、在外公館の仕事の重要度は増すばかり。本来の担当業務はもちろん、ひとりで医療労働を担当している久保村の手伝いもしているようだ。それどころか栄は羽多野を家に閉じ込めて、買い出しなどの雑務もすべて自分が引き受けるのだと言って譲らない。

 理由は、羽多野のような大雑把な男を外に出せばどこでウイルスをもらってくるかわからないから、というもの。それに栄は数日おきに仕事のための外出を避けられないので、だったら同時に買い物を済ませるほうが確かに建設的ではある。

 外出時はマスクに手袋で完全防備し、帰宅すると玄関で持ち物すべてを消毒して、そのままバスルームに直行。同じだけの対策を求められる面倒くささを思えば、厳しい外出禁止令に従っている方がまだましだ。

「大使館職員が感染なんて洒落にならないし、何より」

「いざ感染してしまえば、濃厚接触者である同居人の存在が明らかになるのが心配?」

 神経質で世間体を気にしてばかりの栄の不安は理解できるが、いくら考えたところできりがない。――まあ、そんなふうに簡単に割り切れるようならば、栄はここまでこじれた性格にはなっていないのだろうが。

 しばらく経つと、キッチンからミントティーのいい香りがただよってきた。栄が手にしているマグカップはひとつ。恋人と一緒にティータイムを楽しもうという気はさらさらないのか。

「硬い椅子に座りっぱなしだと疲れるだろう。休憩くらいこっちに座ればいい」

 またもや噛みつかれるかと思いながらそう言うと、意外にも栄はそのままリビングまでやってきて、素直にカウチに腰掛けた。

「このくらい疲れたうちには入りませんよ。日本にいたならきっと今ごろタコ部屋で寝る間もなしに経済対策作らされてますよ。霞の奴らにはきっと『いい時期に海外にいた』って思われてますよ」

「だったら素直にその幸運を喜んでおけばいい」

 言うだけ無理だということはわかっている。いまの生活や仕事に疲れながらも、もっと大変な思いをしている日本の同僚に思いを馳せて「甘えてはいられない」と自分を追い込んでいく。

 泳ぎに行く暇がないからその分食事を控えないと――そんなことを言っているが、実はただ食欲がないだけというのはわかっている。もしも羽多野が一緒に暮らしていなかったらきっと、栄は昼夜関係なしに仕事に打ち込んで、もっと身をすり減らしていたことだろう。そういえば伸びた髪に覆われかかっているうなじは、少し細くなったような気がする。

 かつては羽多野自身が今以上に栄を追い詰めた。あの頃の彼は家に帰ったところで、癒してくれるはずの恋人との関係すら破綻していたというのに――。

 誘われるように首筋に手を伸ばして、そのまま力を込めてぐっと揉み込む。

「お客さん、肩も背中もゴリゴリに凝ってますよ」

「そんなのお互いさまでしょ」

 疲れたと口にすることすら許さないプライドの高さは彼の美徳であり弱みでもある。さっきまでの憎まれ口もどうでもよくなるくらい、羽多野が惹かれてたまらない、健気で哀れな栄の姿。シャツ越しに触れても怒らないのは、さっきの八つ当たりで少しは気が晴れたからなのか。

「まあな。やっぱり仕事をするにはそれなりの設備ってのが必要だよな」

 残念ながらこの国では「座椅子」的なものは見当たらないし、日本からネット通販で取り寄せようにもこの状況下ではいつ届くかわからない。せめてダイニングテーブルで仕事をする栄のためにオフィスチェアを買ってやろうかと言ったこともあるが、渋い顔で首を振るばかり。要するに彼の美意識はダイニングに不似合いな事務椅子の存在を許さないのだ。

「誰かさんがいなければ、サブのベッドルームをつぶして書斎にするところなんですけど」

「その誰かさんがいないと、こんな丁寧なマッサージも受けられないだろうが」

 首から肩、肩から背中、羽多野の手が少しずつ場所を変える。いつしか栄はテーブルにマグカップを置いて気持ち良さそうにうつ伏せる。良かれと思ってやったことが軒並み逆効果になりがちな今日この頃だが、珍しく羽多野は「正解」を引いたらしい。

 首が細くなったように見えたのは間違いではないようだ。ぐっと力をいれて揉み解していると、全体的に体の厚みが減っているのが手のひらにも伝わってくる。ロックダウン下、しかも恋人は絶賛不機嫌継続中というわけで夜の生活も思うようには許してもらえない日々ゆえに、いざ抱き合うときは年甲斐もなくがっついてしまい、彼の体の変化に気づかずにいた。

「谷口くん、ちょっと痩せたんじゃないか」

「筋肉が落ちただけです。……でもこの状況じゃ他の商業活動が再開したところで、ジムとかプールは最後の最後ですよね」

 羽多野にしては控えめな指摘に、やはり栄は強がるだけだ。

「かといってジムやプールが営業再開したところで、しばらくは通う気にもなれないだろう。俺は部屋で筋トレしてるよ。自重使えば特別な器具もいらないし、やりかた教えてやろうか」

「……自分でユーチューブでも見てやります。あなたに物事を教わるの嫌なんで」

 どうやら羽多野にトレーニング指導をされることは、運動不足やそれによる体型の崩れを気にする以上に耐えがたいらしい。しかしカウチにうつ伏せに寝転んで気持ち良さそうにくつろぐ姿を見ていると、これ以上意地悪いことをする気が削がれるのもまた事実だった。

 強張った背中を丁寧にほぐして、両手を腰にやると栄が微かに身じろぐ。このまま下心を押さえ込むか、それとも羽多野だって栄と別の意味で「我慢も限界」だったことを知らしめてやるべきか、悩ましい。

「この騒ぎが過ぎ去ったら谷口くんが一番やりたいことって、何?」

 ストレス解消の爆買いか、それともお気に入りの店でちょっといいディナーと張り込んだワイン。英国に来てからなかなか実現できなかった近隣国への旅行。もしくは「羽多野さんと離れられればそれだけでいいです」などと可愛くない答えだろうか。

 しかし、思いのほか長い時間をかけて考えてから栄は言った。

「別に思い浮かばないですね。普通の生活で十分です」

「はは、君にしては慎ましい」

 とはいえそれは正論だ。病の恐怖に怯えることなく自由に外を歩き回り、人と向き合って話をしたり飲み食いしたりする。ただそれだけの日常があっという間にひどく遠いものになり、本当に戻ってくる日が来るのかもわからない。ささやかな日常以外、何を望むというのだろうか。

 羽多野のからかいに言い返すでもなく栄は手を伸ばし、テーブルの上の新聞を手に取る。わざわざ新聞を買うためだけに外出はしないし、たいていの情報はオンラインでこと足りる。これは昨日仕事に出かけた栄がついでに買ってきたものだ。

 一面には、問題のウイルスの感染者数について――逼迫する医療や医療従事者の状況について――そして今後予想される雇用や経済への悪影響についての記事などがずらりと並んでいる。

「でも、軽々しく普通なんて言うのも贅沢なのかもしれませんよね。命の危険があるような仕事してるわけでもなく、この状況で収入が断たれるわけでもなく」

 ぽつりとつぶやくその声には深い感慨がこもっていた。

 わがままでプライドが高くて利己的で――そのくせ栄はどこまでもストイックで、ときに意外なほど世界や他人のことを気にかける。かつて羽多野が嫌がらせのように栄を陳情の場に引きずり出していたころ、腹の中ではおそらく怒り狂ってはいたのだろうが、いつだって陳情者に対する栄の態度は真摯で丁寧だった。羽多野は彼の完璧すぎる外面が何もかも体面のためであるとは思っていない。

 恵まれた家庭に育ち学歴職歴ともに華やかな世界しか知らない栄は、本人なりに知らない世界の声に耳を傾け、理解しようとする気持ちも持っている。そのことにもっと早く気づいていれば、自分はあんなにも栄を敵視して痛めつけることもなかったのだろうか。

 でも――とことん傷ついて倒れる姿を見なければ、今のように強く栄に惹かれてのめり込むこともなかったのだろう。少量の塩が甘さを引き立てるように、羽多野の中に残る罪悪感は栄という人間への愛情や執着を引き立てる。そして、厄介なことに恋人として一緒に暮らしてもなお、羽多野はときに栄のプライドをへし折って泣かせてやりたいという欲望を抑えきれなくなる。

 もちろん、かつてとは違った方法で。

 従順な下僕の時間はもうおしまいだ。羽多野はマッサージする手を止めて、そのまま栄の背中に覆いかぶさって抱きすくめた。伸びた髪に鼻先を埋めて、痩せたうなじに唇を滑らせる。

「ちょっと、重いです。あと、近いっ!」

 すっかり気を抜いていたところに襲いかかられて栄は暴れるが、毎度のことだが寝技で圧倒的に有利なのは羽多野だ。

「何? ソーシャルディスタンス? そんなの家の中は別だろ」

 首筋を舌でなぞりながら、すでに手はカウチと栄の体の間にもぐりこんでベルトを外しにかかっている。そういえば、仕事用のシャツとスラックスを着用したままの状態から裸にしたことはあっただろうか。これはこれで、新鮮で悪くない。

「羽多野さんっ! 勤務時間中の濃厚接触は禁止です!」

 あきらめの悪い栄が仕事を理由に逃げをはかり、時計に目をやった羽多野は笑う。時計の針はちょうど六時を回ったところだった。

「ちょうど三十秒前に君の勤務時間は終わったみたいだけど」

「そう言うあなたは? 今日、パソコン開いたの十時過ぎだったでしょ」

「俺は能力給だから、やることやってれば時間なんかどうだっていいんだ」

 抜き去ったベルトを床に投げて、勢いでシャツの裾をスラックスから引き出す。機嫌をとるようにぺたんこの腹を撫で、今度は唇でやわらかい耳たぶを噛む。

「ほら、プールに行けない分、運動不足の解消にもなるしさ」

「……あなたって本当に」

 呆れた吐息にほんの少しだけ甘い響きを感じたのは気のせいではないはずだ。

 

(終)
2020.05.22-2020.05.25