ハンブルク帰郷編(2)|1956年・西ベルリン

 朝起きるとシャワーを済ませ、二人分のコーヒーを淹れる。家事全般を何かとユリウスに頼りがちな毎日だが、これだけはニコにとって譲れない毎朝の日課だ。

 この部屋に連れてきて最初にコーヒーを淹れたとき、ユリウスは妙に感慨深そうにカップに口をつけた。その様子を不思議に思って理由を訊ねると、「ハンスが、ニコの淹れたコーヒーが美味いと言っていたから、ずっとどんな味なのか気になっていた」のだと言う。もちろんその言葉に一切悪意はないのだが、ニコはかつてユリウスの裁判について知らせるためにわざわざウィーンからやってきたハンスにひどい態度をとってしまったことを思い出して、いたたまれない気持ちになった。

 ユリウスは脳天気に「あいつはそんなこと気にしないさ」と言うが、ニコはいつかウィーンにも行きたいと思っている。だって、そこには謝らなければいけない人たちがいるから。

「おはよう、良い香りだ」

 キッチンにやってきたユリウスがコーヒーの香りに笑顔を見せた。

 平日の朝はいつもコーヒーとパンとバターで簡単に済ます。向かい合ってダイニングテーブルに座るとユリウスが思い出したように言った。

「そういえば、昨日あれから……」

「えっ?」

 ニコはどきっとして思わずコーヒーをこぼしそうになった。あれから寝室でひとりやましい行為にふけっていたことに気づかれていたのかと思ったのだ。しかしユリウスは平然と、上の階の住人が飼っている猫が走り回ってなかなか眠れなかったという話をした。階段の踊り場で寝ているところをたまに見かける黒猫のことはニコも知っている。

「そんなにうるさかった? 僕はすぐに寝ちゃったから、全然気づかなかった」

 動揺を気取られないよう意識しながらニコはそう言ってごまかした。もし寝室の真上で猫が運動会を繰り広げていたとしても、昨晩の自分は気づかなかっただろうという自信がある。

「かわいいけど、あんなに賑やかにされたらたまらないよな」

「床が薄いんだよね。家賃を考えれば仕方ないけど……」

 言われてよくよく顔を見ると、ユリウスの目の下にはうっすらと隈ができている。猫がうるさくて眠れなかったのだろうか。安アパートなのでぜいたくは言えないし、自分ひとりで暮らす分にはあまり気にしていなかったが、ソファで寝ている上にうるさくて眠れないとなると、ユリウスは日中の疲れが取れないに決まっている。ニコは申し訳ない気持ちになる。

 そんなニコの思いを知ってか知らずか、ユリウスはなかば独り言のようにぼやいた。

「住む場所のこと、ちょっと真面目に考えなきゃいけないよな」

 さっき以上にニコの心臓は跳ねる。それってどういう意味、と聞きたいのに言葉が出てこない。言いたいことを飲み込むのも、聞くべきことを聞かないのも自分の悪いところだとよくわかっている。でも三十年も付き合ってきた性格はそう簡単には変わらない。

 例えばもしここでニコが今の発言の真意を聞いて、ユリウスがここを出ていくことを考えていると言ったら――なんと返事をすべきだろうか。そのときに自分はちゃんと嫌だと言えるのだろうか。それとも笑って同意してしまうのだろうか。どうすればいいのかわからないから、とりあえずニコは聞かなかったことにしてしまう。

 今の生活は、今の自分は、ユリウスにとって期待外れなのかもしれない。そんな思いがどんどん強くなりニコは息苦しくなる。

 幼い頃からずっとユリウスは自分に好意を持って、願いを叶えてくれて当たり前だと思っていた。そんな過去の自分の甘えや奢りについてニコは最近しみじみ考える。そして、与えられる愛情に確信が持てなくなった自分はこんなにも弱い。ずっとニコのため献身的に生きてくれたユリウスに今こそお返しをしたいし、かつて与えられた以上の愛情を返したいと思っているけれど、果たして今のユリウスは本当にそれを望んでいるのだろうか。

 気づかないうちに気疲れが溜まっていたのか、翌週ニコは体調を崩した。

 一日仕事を休み翌朝には熱は下がっていたものの、ユリウスがあまりに心配するからもう一日家にいることにした。ユリウスは看病のため仕事を休みそうな勢いだったが、さすがにそこまでさせるのは気がとがめるので無理やり仕事に送り出した。

「優しいのは、優しいんだよな……」

 ユリウスが出て行った後のドアを眺めて、ニコはため息をつく。底抜けの優しさと、奇妙なよそよそしさ。そのバランスの悪さこそがニコの不安を大きくする。

 熱は下がったしゆっくり睡眠もとったので、気分はずいぶんすっきりしていた。余計なことを不安がっていてもしょうがない。気分転換にたまにはユリウス任せではなく自分で部屋の片付けくらいしようと、リビングの隅に置かれたユリウスの荷物を動かしたときだった。そこからひとかたまりの紙の束が落ちた。

「手紙?」

 紐で束ねられたそれは、数十通もある手紙の束だった。奇妙なのは一通も封を切られた形跡がないことで、いけないことだとは思いながら好奇心が抑えられず、ニコはその中から一通を取り出し宛先と差出人を確認した。

 宛名はユリウス・シュナイダー、宛先はユリウスが服役していた刑務所になっている。そして封筒の裏にある差出人の名前は――。

「ユリウスの、お父さん……」

 住所はハンブルク市内ではあるが、かつてユリウスと父が暮らしていた家のものではなく、一見して施設とわかるような名称が添えられている。ニコは愕然とした。

 ユリウスの父親の近況について、ニコとユリウスの間で話題にすることはなかった。家族を失った自分がいまさらユリウスの父親について訊ねるのも、かえって気をつかわせてしまうのではないかと思っていたからだ。とはいえ、たった二人きりの親子なのだから当然それなりに連絡くらいは取り合っているのだろうと高をくくっていた。しかし今手にしている手紙の束は、ニコのそんな考えが間違っていたことを物語っている。

 ニコは震える指でひとつひとつの手紙の消印を確かめる。ユリウスの判決が出て間もなくから、きっちり三ヶ月に一通ずつ、五年分で合計二十通あった。

 ユリウスと父親の間が上手くいっていなかったことは確かめるまでもない。もともと厳しい父親に苦手意識を持っていたところに加えて、レオの連行に関する誤解が重なったのだから、ユリウスの父親への態度はますます頑なになったことだろう。

 その後、ユリウスはハンブルクを離れてナポラの宿舎で学生生活を送り、卒業を待たずに入隊してアウシュヴィッツへ行ったが、果たしてユリウスの父親は家を離れた後のひとり息子の様子をどこまで知らされていたのだろうか。もしかしたらユリウスの入隊どころか安否すら長い間知らないままだったのではないか。ユリウスの性格からすれば不思議ではない。

 ユリウスの父はどんな気持ちで戦中戦後を過ごしていたのだろう。ひとり息子が大きな誤解をしていることも、戦中戦後にどこで何をしているかも知らず――そして、ある日突然、彼が戦争犯罪者として罰せられると聞かされたとすれば? 胸が締め付けられるような気がした。

 なんて自分勝手だったんだろう。自分がユリウスと一緒に過ごすことだけを考えて、今まで一度だって彼の父親の気持ちを考えたことなどなかった。ニコは握りしめた手紙の束をじっと見つめた。

 何よりの疑問は、ユリウスなぜこの手紙を開封していないのかということだ。開封していないということは当然返事を書いてもいないだろう。裁判が終わって間もなくニコはユリウスに、レオがゲシュタポに連行されたことはユリウスとその父親のせいではないのだとはっきりと告げた。それどころか、ニコたち一家を救うためドイツから逃げる車の手配をしてくれたのがユリウスの父であるということもきちんと伝えたのだ。誤解は解けたはずなのに連絡を取ろうとしないのは、ただ体裁が悪いからなのだろうか。

 ニコにはもう家族はいない。父も母も兄も妹も戦争で死んだ。だからこそ、せっかく生き残った親子が感情の行き違いのままにわかりあえずにいるのはとても悲しいことだと思えた。

 ――僕はばかだ。ベルリンに連れてくるより先に、ユリウスには会わなければいけない人がいたんじゃないか。

 こんな気が利かない、自分のことしか考えていない人間はユリウスに愛想を尽かされたとしても不思議はない。ニコは自己嫌悪に唇を噛む。どうしよう。今からでもまだ何かできるだろうか。

 しかし、こっそり手紙を見てしまったことをユリウスに正面切って告げる勇気はないし、下手に父親の話をすればむしろ意固地になりかねない。

 ニコはさんざん悩んで、その晩ユリウスに切り出した。

「あのさ、今度の休みに行きたいところがあるんだ」

「何だよ、改まって」

 怪訝な顔をされたので焦りながら、できるだけ警戒されないように、不審に思われないようにあわてて笑顔を浮かべて軽い口調でごまかす。

「改まってなんて、そんな大した話じゃないよ。ちょっと出かけたいんだけど、君も一緒だったら嬉しいと思って」

「もちろん、いいけど」

 どこかうさんくさそうな表情を浮かべたユリウスの了解を取り付けたニコは、わずかな貯蓄を切り崩してハンブルク行きのチケットを二人分買った。

 辛い想像ではあるが、もしも新しい生活の中でユリウスがいつかニコの元を離れてしまうのだとすれば――今のニコがユリウスに何か意味あることをしてやれるとすれば、きっとこれだけなのだと思う。