ハンブルク帰郷編(3)|1956年・西ベルリン/ハンブルク

「聞いてない」

 次の休日の朝、ニコの真意を知らされたユリウスは大いに驚き、それから不機嫌になった。

 一緒に出かけたいと思わせぶりに言われて、平静を装いながらもとても楽しみにしていたのだ。同じ部屋で暮らしはじめてからも日々の生活に追われ、ゆっくり二人で外出することなどなかった。休日だってニコはほとんど家か図書館で勉強していたし、ユリウスもニコのやりたいことを一番に優先したかったから特に不満があったわけではない。だが、ようやくデートのようなことができるとなれば、それはそれで心踊った。

 まさかその行き先がハンブルクであるとは思ってもみなかった。再会して以来一度としてニコの口から故郷の話題がでることすらなかったのに、なぜいまさら。

 もちろんユリウスにとっても故郷であるハンブルクは思い入れのある場所だ。ナチスによる支配が強まり、戦争に突き進む時代を過ごしたという意味ではひどく苦い記憶に彩られてはいるが――他でもなくそこでユリウスはニコと出会い、幼い日々を共に過ごした。しかしユリウスはまだ、ハンブルクを懐かしい過去のひとつとして訪問するだけの覚悟は持てずにいた。なぜなら、そこには長い間音信不通にしている父がいるからだ。

 仏頂面で考え込み、もしかしたら隠していた父からの手紙の束をニコに見られたのかもしれないと思い当たる。心優しいニコのことだから、ユリウスと父を和解させようと思って決して安いとはいえないハンブルク行きの航空券を二人分買い求めまでしたのだろう。後ろめたさからあの手紙を捨てることができずにいたのが間違いだったと後悔するが、すでに手遅れだ。

「君のためじゃない、僕が君のお父さんに会ってお礼を言いたいんだ。嫌なら、どこか別の場所で待っていてくれればいいから」

 心にもないことをニコはいけしゃあしゃあと言ってのける。ただ、ニコがユリウスの父に礼を言いたいというそれ自体はハンブルクを訪れるには真っ当な理由で、だからユリウスははっきりと反論しづらくなる。

 かつてニコとその両親、そして妹がゲシュタポから逃れポーランドへ亡命しようとしたとき、ユリウスの父が密かにその支援をしたのだという。商売を通じてナチ政権に貢献し、ユリウスにもユダヤ人であるニコとの付き合いを控えるようことあるごとに言っていた父がそんなことをするなんて、ユリウスとしてはまだ信じられずにいる。だが、ニコは人から聞いた話を完全に信じ込んでいるようだ。

「ニコ、おまえはそのレオの友人とかいう奴に担がれているんだ。俺の父親がそんなことするはずない。礼を言う必要なんかないよ」

「でも、ブルーノが僕に嘘を吐く理由なんかないよ。それに、はっきりとしたことがわからないからこそ確かめたいんだ」

 結局二人は昼にはハンブルクに着いた。ニコが強い意志を示せばユリウスは最終的に従ってしまう。これはもう、幼い頃から染み付いた条件反射のようなものなのかもしれない。

 懐かしい街の姿は、激しい空襲によりずいぶん様変わりしていた。しかし大きな河にある港や開放的な雰囲気自体は昔と大差ない。ニコの強引な行動への反感があるので口には出さないが、故郷の町の土を踏んだことでユリウスの心にも懐かしさや喜びがこみ上げた。

「僕はあのとき以来十六年ぶりだ。ユリウスは?」

 目をきらきらさせて子どものように落ち着きなく周囲を見回しながら、ニコは完全にはしゃいでいる。ナチスによるユダヤ人排除が激しくなる中でニコがここで過ごした日々の半分は暗い思い出であるはずなのに、一体なぜこんなに嬉しそうな顔ができるのか。もしかしたら父のいる場所にやってきてナーバスになっているユリウスに配慮してわざと明るく振舞っているのだろうか、真意はわからない。

「学生時代に一度休暇で戻ったことがあるから、十四年くらいだな。ニコとたいして変わらないよ」

「そうなんだ。ほら、見て、あの教会覚えてる? 懐かしいな」

 だが、ニコがあまりに自然な笑顔を見せるので、やがてユリウスは自分が腹を立てていたことすら忘れた。昔からニコと一緒だといつもこうだったな、とそんなことすら懐かしい。

 最後に故郷に戻ったときはナポラの学生で、ヒトラーユーゲントの制服を着ていた。もしもあそこで立ち止まっていれば、親衛隊に入ることもなく、アウシュヴィッツに行くこともなく罪を犯さずにすんだのかもしれない。でも、ユリウスがあのとき別の道を選んでいれば、ニコと再会することはできなかっただろう。そして、あの過酷な戦争の中、ニコは収容所で生き延びることができなかったかもしれない。

 もちろん自分がいなければニコが確実に死んでいたとは思わないし、ニコに対してそんな恩着せがましい物言いをすることは決してない――しかしユリウスは、たとえもう一度あのときに戻れたとしても、自分は同じ選択をするだろうと思う。同じようにニコを生き延びさせることを望み、それと引き換えに重い罪を犯してしまうのだと。

 考え事をしているうちに、目指す場所の近くまで来てしまったらしい。ニコが立ち止まり、訊ねた。

「ユリウスは、どうする?」

「どうするって?」

 ユリウスが訊き返すと、ニコは今になって体裁の悪そうな顔をして見せた。

「お父さんと会うのが本当に嫌なら、どこかで待っていてもらってもいいんだ。無理を言うつもりはないから」

 顔を上げるとほんの一ブロック先に少し大きな、民家とは異なる雰囲気の建物が見えた。きっとあそこが父からの手紙に書かれていた住所なのだろうとユリウスは察する。

「待ってていいって……そんな気さらさらなかったくせに、白々しいぞ」

「……うん、まあ、そうかな」

 ユリウスが恨みがましい言葉を吐くと、ニコは取り繕うように笑って見せた。その笑顔でユリウスはもう全部を許してしまう。

 とはいえ、このすぐそばに父親がいるのだと思うと緊張は高まる。刑務所に送られた手紙は一通も読んでいないので、勝手なことをしたあげくに戦犯になった自分に対して父が今どういう感情をもっているのか、まったく想像もつかない。厳しい父のことだから、怒り狂っていることも十分想像できる。

「勝手なことしたって、怒ってる?」

「少しだけ」

 怒ってはいない。ただ怖いのだ。ここに至ってユリウスは、かつてハンブルクで過ごした時代に引き戻されていた。父親の顔色をうかがってばかりだった幼い時代、その反動でひたすら反発していた思春期。青くさい感情が一気に押し寄せてきて、両の掌が汗でぐっしょりと湿った。

 目的の建物は、高齢者や身障者が生活する介護施設だった。一歩足を踏み入れると、戦傷者なのか体の一部が欠損している人々や、表情の虚ろな高齢者の姿が目に入り、ユリウスはなおさら動揺した。厳しく強かった父親がこの人々と同じような環境にあるということを頭が受け入れようとしない。だが、紛れもなくそれは事実なのだ。

 そわそわ落ち着かないユリウスをロビーに残してニコが受付に行くと、愛想のいい若い女が対応した。やがて戻ってきたニコは「二階の奥だって」と言う。笑顔を浮かべてはいるが、ニコもまた緊張を隠しきれてはいない。

 教えられた部屋のドアを開けると、ベッドで上半身だけ起こして読み物をしている男性の姿が見えた。ユリウスは自分の心臓が飛び跳ねるのを感じて、部屋の入り口でたちすくむ。ちらりと顔色をうかがってきたニコは、「落ち着いて」と言いたげにゆっくりとユリウスの背中を撫でた。

 頭髪には白いものが多く混じっている。全体的に痩せて小さくなった。ベッドの横に車いすが置いてあるのは、足が不自由だからなのかもしれない。その姿に胸がぎゅっと締めつけられ、ユリウスは親ひとり子ひとりであるにも関わらず、自分がどれだけ親不孝をしてきてたかを思い知る。

「……父さん」

 呼びかける声は震えた。

 父が顔を上げて老眼鏡を外した。驚いたように目を見開き、そして……。

「父さん、ごめん」

 ひとり息子からの謝罪の言葉に、父は声もなく涙を流した。

 ユリウスは、父が泣く姿を初めて見た。記憶が確かであるならば、母が死んだとき父はただ難しい顔をして唇を噛んで弔問客の対応をしていた。そこに涙はなかった。ユリウスがわがままを言ってなかば無理やりナポラへの進学を決め、ハンブルクの駅から旅立つ時も父は涙を見せなかった。だからユリウスは父のことをただ冷たい人間なのだと思っていた。父がいつだって必死の思いで涙をこらえていたかもしれないなんて、微塵も想像することなしに。

 ユリウスはただ謝ることしかできなかった。他に何を言えばいいのかわからない。一度だって父の言うことをまともに聞かず、我儘と癇癪で反抗し続けた。勝手なことばかりして、最終的には戦犯として刑に服すことになった。ニコのことを思えば何ひとつ後悔はない。ただ、自分がどうしようもない親不孝者であることもまた事実だ。

 故郷にも戻らずこんなところで父はひとり、もしかしてユリウスの帰りを待っていたのだろうか。それとも、もしかしたらユリウスが戦犯になってしまったことで親類の中で肩の狭い思いをしているのだろうか。ベッドの周囲は簡素で、ほとんど来客や見舞いの痕跡もない。

 父から見えないようそっと、ニコが後ろから背中を押してくれる。ユリウスはベッドの横まで進み、シーツの上でぎゅっと握りしめ震えている父の手に向けて手のひらを伸ばした。少しのためらいを見せた後、父もぎゅっと手を握りしめてくる。

「……謝らなくていい。生きて顔を見ることができた、それだけで。……ああ、神様……」

 父がぽつりとつぶやき十字を切った。それがすべてだった。

 親子は黙ってしばらくそのまま手を握り合っていた。やがて入り口のあたりに立ったままでいるニコに気づいた父親が顔を上げる。涙はようやく止まったが、その目は赤いままだ。

「君も……来てくれてありがとう」

 ニコはびくりと体を震わせる。ユリウスは自分の不安で頭がいっぱいだったが、ここに来てユリウスの父と顔を合わせることにはニコだって大きな勇気が必要だったに違いない。

「あの、僕は」

「大丈夫だ、わかるよ。グロスマンの次男坊だろう。君が無事で良かった」

 何から話せば良いのかわからず戸惑っているニコに向かって父は軽く微笑み、もっと近くに来るよう手招きをした。ニコはおずおずと足を進め、ユリウスの隣に並ぶ。

「すみません。僕、本当はもっと早くお礼を言いに来なければいけなかったのに。いやお礼というか、謝罪というか。僕は……」

 父がユリウスとニコの間にあった出来事をどこまで知っているのかはわからない。ユリウスも、ニコとの現在の生活をどう説明すれば良いのかまでは頭が回っていなかった。

 ニコの頭の中はきっとぐちゃぐちゃなのだろう。かつての逃亡支援に感謝する気持ち。ユリウスが戦犯になったことに責任を感じ謝罪したい気持ち。口下手なニコが青い顔をして言い淀むので、逆に父の側が助け舟を出した。

「君が無事だったという話は、こいつの弁護士の先生から手紙で教えてもらった。ご家族のことは残念だが、君だけでも生き延びたのは嬉しいことだ」

「あなたのおかげです、シュナイダーさん。あのときあなたが車を手配してくれなければ僕もきっと死んでいました。……失礼ですが、あの後大変な目に合われたのでは」

 ニコは横目でちらりと車椅子を見る。ユリウスも気になっていたが、腰から下がシーツの中にある父の様子はよくわからなかった。

「たいしたことはないさ。空襲で何もかもが焼けて脚を一本なくした。でも今はここで世話になって、スタッフには親切にしてもらってるよ」

 苦難に満ちていたであろう日々をひと言で済ませ、父はやはり穏やかに笑った。

 空襲で家も工場も焼けてしまい、建物の下敷きになった父は腎臓を片方摘出した上に片足を切断する羽目になった。しかし長く暮らしたハンブルクを離れる気になれず、福祉の世話になって戦後はこの施設で生活をしている。忙しく働き続けていたから、少し早めにリタイアしたんだと思ってのんびり楽しんでいるよ、という言葉にはもちろん多少の強がりがこもっているだろう。そんなところは頑固で見栄っ張りな父らしいと思えた。

 しばらくそのまま話をした。日帰りだからあまり時間がないのだというと、少しだけ父の表情が曇った。思わずユリウスが「また来るよ」と言うと心底嬉しそうに笑う。そして、並んで立つユリウスとニコをじっと見つめ、父はおもむろにニコに話しかけた。

「私は早くに妻を亡くして、息子にどう接したらいいかわからなかった。そのせいもあるのだろうが、こいつは私に似てわがままで気難しくて、ろくな人間には育たなかった。……でも、君のことを話すときだけは息子がずいぶんましな人間に見えたよ」

 目の前で、愛のこもった口調で貶されたユリウスは気まずく笑った。

「君たちが共に生き延びたことも、今日一緒に来てくれたことも、とても嬉しいよ」

 別れ際に告げられた言葉にユリウスは、父は何もかもを知っているのかもしれないと思った。もちろん細かいあれこれまで承知しているはずはないが、ユリウスがニコのことをどう思いどれほど必要としているかを知った上で、それを認めてくれているのかもしれない。

 多分に願望も混ざっているのかもしれないが、揃ってわがままで気難しくてろくでもない似た者親子だからこそ、ユリウスは父の言葉を素直に受け止めていいような気がした。

 そして、帰り際にはこの日二つ目の予想外の出来事がユリウスを訪れる。ニコとふたり部屋を出てロビーへ続く階段へ向かおうとしたところで、突然背後から声をかけられたのだ。

「坊ちゃん? あなた、ユリウス坊ちゃんでしょう」

 その声に足が止まる。長い間耳にしていないその声、その呼び名。父に会いに来たその日に、まさか、こんなことが起こるとは――。

 ユリウスがゆっくりと振り返ると、そこには腰が曲がって小さくなった老婆がいた。黒く縮れた髪に大きくかぎのように曲がった鼻、そして、少しだけイディッシュ訛りのあるドイツ語。

「ナタリー……」

 ユリウスは全身が凍りついたかのように動けなくなった。

 ハンブルクに引っ越してからの数年間、幼いユリウスの数少ない理解者だった家政婦のナタリー。ユダヤ人排斥の動きの中イギリスに去り、その後ユリウスは様々な心境から彼女に手紙を書くことをやめ。それきりになっていた。

 ユリウスにとって彼女はこの世でニコの次に、親衛隊員になったことを知られたくない相手だった。なぜドイツを去ったはずのナタリーがこんな場所にいるのだろう。

「坊ちゃん、立派になられて」

 ナタリーの隣に寄り添う中年男は、ちらりと話に聞いたことのあるナタリーの息子だろうか。男に腕を支えられ、しかししっかりとした足取りでナタリーはユリウスの目の前まで歩いて来た。

「ロンドンにいるんじゃ……」

「ええ。ただ、戦争で旦那様が体を悪くされたと聞いてからは、たまにこうやって息子に頼んでハンブルクへ連れて来てもらっているんです。なんせ、旦那様は命の恩人ですから」

 ユリウスの父は、当時ナチス支配下のドイツから出国する際にユダヤ人に課されていた多大なる出国税を払ってやった。ナタリーは今もそのことに恩義を感じて、年に数回は面会にやってきているのだという。

 父と自分が似ているなんて、やっぱり嘘だ――ユリウスは思い直す。

 黙ってナタリーを救い、ニコの家族にひっそりと手を差し伸べた父と比べて、あの頃のユリウスはただ好きな人が遠くに行ってしまうことが耐えられず駄々をこね続けた。自分が本質的には子どもの頃と何ひとつ変わっていないことを思えば、今同じような状況が訪れたとして父のような行動を取れる自信はない。父はユリウスとは違う、立派な人間だ。

 ナタリーが元気でいることは嬉しい。本当ならば抱き合って再会を喜びたい場面なのに、ユリウスは下を向いて黙り込んでしまう。

 彼女は何をどこまで知っているのだろうか。ユリウスがナチスドイツのために働き、親衛隊員として末端ながらユダヤ人の処刑に関わったことを知っているのだろうか。いや、知っていたらこんな笑顔を向けては来ないはずだ。気まずさにうつむくと、心境を察したのかニコがそっと背中に手を当ててきた。

「ナタリー。ナタリーすまない、俺は……」

 震える声で自分がどんな人間になってしまったかを告げようとしたところで、しかしナタリーは言葉の続きを遮った。

「坊ちゃん、何もおっしゃらないでいいんですよ」

 ユリウスはハッとして顔を上げる。ナタリーはまるで、わがままで癇癪持ちで孤独な五歳の子どもを相手にするような口調で、優しい笑顔を浮かべて続けた。

「誰がなんと言おうと、ナタリーはユリウス坊ちゃんがいい子だってことをわかっています。坊ちゃんが一見して人に責められるようなことをしたとしても、それはご自身の正義があってなさったことなんでしょう」

 枯れ木のように痩せた老婆の手。ユリウスはゆっくりと手を伸ばしてそれを握りしめた。再び顔を伏せてしまうのは、今ナタリーの黒い目と見つめ合えばきっと涙がこぼれてしまうからだ。

 しばらくそうしていただろうか。ユリウスの感情が落ち着くのを待ってから、その後ろに隠れるようにして立っているニコに目をやり、ナタリーはいたずらっぽく笑った。

「覚えていますよ、グロスマンの坊ちゃんと最初に会った日のこと」

 ユリウスは振り返り、ニコと視線を合わせる。

 うっすらとだが、記憶にはある。他に人のいない公園でナタリーと二人で遊んでいるときに偶然ニコが母親と現れたこと。あちこちに飛び跳ねた茶色い髪が、太陽に透かされて綺麗だったこと。

 ナタリーは続ける。

「せっかく手を差し伸べてくれたのに、ユリウス坊ちゃんは恥ずかしがってどうしても握り返せなくて、ご自分のせいにもかかわらず、後でずいぶん悲しいお顔をしていらっしゃいましたね」

 一気に幼い記憶が生々しく蘇り、ユリウスは赤面した。一方ニコはそのときのことをはっきり覚えていないのか、ぽかんとして笑うナタリーと顔を真っ赤にして黙り込むユリウスを眺めている。

「ユリウス……?」

「お、覚えてない。そんなこと」

 思わず言い返すが、それが真っ赤な嘘であることは誰の目にも明らかだった。

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