ウィーン再訪編(10)|1961年・ウィーン

 数時間後には出かける予定なのに、アイロンのきいた着替えのシャツは他にあっただろうか。そんな心配も、答えを見つけるよりも先にどうだってよくなってしまう。ニコもユリウスも性急な口づけを交わしながら先を争うように服を脱いでベッドの下に放り出した。

 一緒に暮らすようになって何年も経ち、体を重ねることなどいまさら珍しくもないのに〈いま〉〈ここで〉抱き合うことには特別な意味がある。そして、こんなにも手を伸ばすこと逡巡するのは、できるならばこれで最後にしたいから――ニコは戸惑いを捨てる。

 ユリウスが積極的な奉仕を求めてきたことはない。彼がニコに求めるのはいつだって「声を聞かせて欲しい、嫌がっていないと知らせて欲しい」ただそれだけ。だからニコは自らの口を塞ぐことをやめて、しかしそれ以上のことをしてきた記憶はない。もちろん性的に昂ぶれば性器はいやらしく反応するし、腰は自然と揺れる。だがそれだけだった。

 でも、本当にそれで十分だったのだろうか。現にユリウスはたった今まで、ウィーンで体をつなげたときのことを暴力であると信じていた。それはつまり、ニコがユリウスを深く愛していることを、もう決して離れたくないということをもっと言葉や体で伝えなければいけないということだ。

 濡れたキスを繰り返すうちに、ユリウスの股間のものが立ち上がってくるのがわかった。形ならばすっかり覚えてしまった。長いそれがニコの奥のどの深さまで届くかも、張り出した場所がどこをどう抉るかも、後孔はユリウスのすべてを知り尽くしているが――でもまだ「こっちでは」知らない。ニコはすでに唾液で湿った自らの唇をもう一度確かめるように舌でなぞった。

 汚いと思われるかもしれない、嫌がられるかもしれない、こんなことユリウスは望んでいないかもしれない。でもニコは知りたい。それと同時にこれまで記憶の底に押し留めてきた、ユリウスには知られたくないと思ってきたことをすべて吐き出したい。

 向かい合って座った状態で、まずは手を伸ばしてユリウスの勃起を軽く握る。抵抗されないことを確かめてからゆっくりと上体をかがめると、ニコは滑らかな先端に口付けた。

 快感よりは驚き――が震え、一瞬遅れてユリウスが息を飲む音が聞こえた。

「……っ」

 喜んでいるかはわからないが、拒まれはしない。あまりに彼の想像とかけはなれた展開にただ驚いているのだろうと判断する。

 数えきれないほどこの体に受け入れてきたのに、こんなに近くで見たことも、こんなふうに触れたこともない。茎の部分も皮膚そのものは先端と同じようにすべすべしているが、舌を滑らせるうちに脈打つ血管が浮き上がってくる。恋人の一部でありながらまるで別の生き物のように自己主張してくるそれをニコは心から愛おしいと思った。

 慣れているというほどではないが、未経験でもない。だがこれは、吐き気をこらえ、苦痛に涙を浮かべながら代償――それは家族の命を救うささやかな希望であったり、自分やユリウスの生活をつなぐためのわずかな金銭だったりした――を求めるために行った行為とはまったく違っている。

「ニコ……っ」

 頭上から濡れて震えた声が名前を呼ぶ。髪を撫でようと触れてきた大きな手のひらは、舌先でくびれた部分をくすぐれば驚いたようにすくんで、それからゆるくニコの髪をつかみ、引っ張った。

「ん……」

 ぺちゃぺちゃとはしたない音を立てながら、ときおり甘い吐息をこぼしながら、ニコは夢中になってユリウスのものをしゃぶった。手の中口の中で形を変え大きさを増すものにひどく興奮して腰がじんじんと熱くなる。ニコのペニスもきっと、触れてもいないのに立ち上がって蜜をにじませている。

 舐めて、吸って、両手を使って隅々まで擦っていると、やがてユリウスが切羽詰まったようにニコの肩を押す。

「ニコ……っ、もういい」

 限界が近いのだと理解して、それでもニコは唇を離さなかった。何もかも――ユリウスの吐き出す欲望の最後の一滴まで味わいたいという欲望は狂おしく激しく、そして切実だった。

「――っ」

 低い呻き声とほぼ同時に熱いものが口腔を打つ。数度びくびくと震えて、ユリウスは弛緩した。

 青くさい味とにおいを堪能してから飲み込むときも、まだ惜しいくらいの気持ちだった。しかし、ニコの喉仏が動いたのを見て驚いたようにユリウスは肩を揺さぶってくる。

「ニコ、何をしてるんだ。そんなこと……」

 もしかしたら彼にとっては想像もできないような品のない行為だっただろうか。ニコは唇を拭い、熱っぽい顔を上げた。

「そんなことって?」

「おまえは無理しなくてもいいんだ」

 ニコはゆるゆると首を振る。

「無理なんてしてない、したかったんだ。それともユリウスは僕がこういうことをすると失望する?」

 ニコ、と驚いたように見つめてくる瞳は熱っぽい。答えを待つまでもなく、たったいま達したばかりのユリウスは再び兆しはじめていた。

「来てくれ、ニコ」

 まだ触れられていないニコはもっと切実で、腕を引かれると我慢できず、自分からユリウスの腰にまたがった。

*  *  *

 セックスに夢中になって、はっと時計に目をやったときには車が来る予定時刻まで三十分程度しか残っていなかった。交代でシャワーを浴びる暇もないから、腕を絡めたままバスルームに向かう。昨晩は広すぎて持て余した浴室だが二人でシャワーを浴びるにはちょうどいい。

 石鹸を泡だて互いの体を洗いあっているうちに再び高まりそうになり、そんな自分たちが滑稽に思えた。

「もう、外出なんかしたくないな」

「駄目だよ……ハンスにお礼を言いに行かなきゃ。何をしにウィーンに来たのかわからない」

「あいつなんてだ」

「ふふ、冗談にしてもひどいよユリウス」

 後ろから抱きしめうなじを強く吸ってくるユリウスを諫めて、ニコは笑いながら二人の下腹部にシャワーの水をかけた。体の熱を完全に冷まさないと、こんな状態では旧友であり恩人である男に会うことはできない。

 バスルームを出て慌てて服を着て、外出の準備が整ったのは時間ぎりぎり。ユリウスがコートに手を伸ばし、ふと声を低くした。

「ニコ、おまえがこのコートを俺にくれたとき――すごく嬉しかった反面、後ろめたかったんだ」

 ユリウスの言葉はニコにとって意外なものだった。

 後ろめたさを感じているのは正当とは呼べない方法で金を作った自分だけだと思っていた。だがユリウスはそうではないのだと首を振る。

「俺には立派なコートを手に入れてくれたのに、ニコは自分じゃぺらぺらの上着を着ていただろう。同じだけのものを返してやりたいのに俺にはなにもできなくて。サラがおまえにコートを送ったときは嫉妬すら覚えた」

 ウィーンへ向かうときに支援者のサラが贈ってくれたコートのことを思い出す。あの頃のニコは古く薄っぺらな上着しか持っていなかったから彼女の厚意はとてもありがたかった。でも、そのときにユリウスがどんな顔をしていたかは思い出すことができない。

 何よりあの頃のユリウスは命に関わる病気と大怪我からようやく回復したところだったのだ。コートを買う金なんて持っていなくて当たり前だ。だが、それでもユリウスは自分が不甲斐なく悔しかったのだと言う。

「あのときもし俺の体がもう少し自由に動いていたなら、それこそ人殺し以外のどんな手を使ってでもおまえに暖かい上着を買っただろうな」

「どんな手を、使っても?」

「ああ」

 その裏にユリウスがどんな意味を込めていても、込めていなくても構わない。それでもニコの心は少しだけ軽くなった。最初にウィーンに来たときの不安やひとりでウィーンを去ったときの絶望も、優しく見下ろしてくるユリウスの視線に溶けてゆく。

 微笑んで見つめあって、もう一度キスをしかかったところでドアをノックする音が響いた。二人は慌てて体を引き離す。

「お客様、お迎えの車が到着いたしました」

「あ、はい!」

 声を上げると、ユリウスがハンガーから下ろしたニコのコートを手渡してくる。とりあえず今はまず、賑やかな男との再会の宴に向かおう。楽しい夜は長く続くだろう。そして、戻ってきてからのニコとユリウスの夜も、きっと――。

 そしてこれからも、前に進むことや過去を振り返って胸を痛めることを繰り返しながら、二人で寄り添って生きる日々は続いていくのだ。

 

(終)
2019.12.16 – 2020.03.31

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