22. 第1章|1947年・ウィーン

 ずっと悩まされているあの痛みが頭の奥でくすぶりだした。こいつの話を聞いてはいけないという、それはほとんど本能的な感覚だ。レオは男の体をぐいと押し返し、距離を取ろうとする。

「悪いが俺はあんたのことは知らない。前にも人違いだって言っただろう!」

 さっきより強い言葉で牽制すると、男は口だけでにやりと笑ってレオの怒りをなだめるようにポンポンと肩を叩いた。

「わかったわかった。そういうことにしておきたいなら、とりあえずそれでいいさ」

 そして、意味深に付け加える。

「でも、もし俺の力を借りたくなったら相談に乗るぜ。知り合いが俺たちみたいな人間を〈飛ばす〉コネクションを持ってる。今は順番待ちだが、俺も準備が整えばアルゼンチンに行く予定だ。まあ、それなりの金は積む必要があるが、いつ捕まるかわからないこんなところでびくびくして過ごすよりましだろう」

 見知らぬ男の意味のわからない話にレオの動悸は激しくなり、頭の痛みが増す。

 何かがおかしい。何かがおかしい。

 こんな男知らないはずなのに、ベルリンになんていたことはないはずなのに――このざらりとした声やねちっこく人を値踏みするような目に覚えがあるような気がするのはどうしてだ。

「まあ、気が変わったら連絡しな。おまえとの間にはろくな思い出がないとはいえ昔の仲間のよしみだ。そうだ思い出した。おまえの名前は確か――」

 語尾は聞こえなかった。まるでよく研がれた刃物ですとんと切り落としたように、レオの耳に入る前にそこだけきれいに欠落した。男は紙切れをそっとレオのポケットにねじ込む。

「やめろ!」

 レオは叫び、渾身の力で男を突き放すと走り出した。

 どこに向かっているのかわからない。ただ、男が目に入らない場所に、男の声の聞こえない場所へ逃げなければいけないと強く思った。それだけではない、あいつと出くわしてしまった事実すら消し去ってしまわなければいけない。あいつは危険だ。あいつは俺の存在を脅かそうとしている。

 レオは走りながら男から渡されたメモ書きをポケットから取り出し捨てた。

 消さないと、痕跡を。

 忘れないと、何もかも。

 ――でも、なんのために?

 周りの光景など見えていない。自分がどこを走っているのかもわからない。それでもレオは走り続けた。体力の限界はとっくに超えているはずだ。心臓は破裂しそうで、頭は割れるように痛む。それでも走ることをやめられなかった。

 酸素が足りないのか、だんだん何も考えられなくなる。さっきの男のこと。仕事に行く途中だったこと。ついさっき別れ際に見たラインハルトの顔。ハンスの豪快な笑い声。シュルツ夫人の小言。

 そして、ニコ――。

 ふっと体が軽くなり、続いて何かにたたきつけられる感覚。意識を手放しながらレオは、通行人が大声をあげて集まってくるのを遠く耳に聞いていた。

 そして、長い夢をみた。

 目を覚ますと夜だった。

 暗闇の中、枕元の小さな灯りが周囲を薄く照らし出している。半覚醒というのか、目は開いているがどこか現実離れした気分で頭は半分も回っていない。ぼんやりと見上げる先には白い天井、そして鼻にはかすかに病院特有の消毒液のような匂い。既視感のある光景だが、今回は包帯だらけでもないし体が痛んだり麻痺したりしているわけでもない。

 いや、左腕がしびれているようだ。あのときだって左腕だけは無事だったはずなのに、なぜ? 混乱の中で視線を動かすと、レオの左腕に頭を預けるようにしてニコが眠っていた。腕のしびれはその重みのせいだ。

 ようやく自分が病院に運ばれたことに気づく。長いこと意識を失っていたんだろうか? そもそもなんで意識を失ったんだったか。とろとろと半分眠りかけたような状態のまま、自由な右腕を伸ばして眠るニコの髪を撫でていると、ゆるゆるとまぶたが開いた。

「あ……」

「悪い、起こしたか?」

 ニコはあわてて頭を上げて上体を起こした。もう少し触れていたかったのに、ちょっと残念な気がする。

「ううん。ごめん、腕しびれてない?」

 いいや、と首を振るレオをニコは心配そうに見つめてきた。

「急に道で倒れて、病院に運ばれたって連絡があったんだ」

「……ああ」

 そういえば、そうだったか。よく覚えていないが確かひどい頭痛に襲われて立っていられなくなった。痛みはもう消えている。

「とりあえず今のところ大きな危険はないみたいだけど、後できちんと検査しないとね」

「ああ」

 話していると再び眠気が強くなってきた。自分でも眠っているのか目を覚ましているのかよくわからない瀬戸際のところで、レオはそれでもまだニコの顔を見ていたいし、ニコと話していたい。

 ぼんやりとしたまま「夢を見ていたよ」と言った。ついさっきまで見ていた夢のことが、まだ頭の中にぼんやりと残っている。

「夢?」

「不思議な夢。……別の人間になった夢だった。俺はそこではおまえの兄貴ではなくて……」

 そう、確かそんな夢だった。不思議で奇妙な長い夢の中にはニコの姿もあったような気がする。

「……そう」

 ニコがぎゅっと手を握りしめてくるのは感触でわかった。その声がまるで泣き出すときのように震えているのは気のせいだろうか。だがあまりの眠さにレオは目を開けてニコの顔を確かめることもできない。

「もう少しだけ眠って。次に起きたらゆっくり話そうね」

 何を? と聞き返す前に再び意識は遠くなった。最後に残っているのはニコの手の感触。しかしそれもさっきみた夢と同じように、すぐに溶けて消えてしまう。

 再び目を覚ましたとき、一番に目に入ってきたのは覚えのあるそばかす面だった。

「お、起きたか」

「よかった、気分はどうだい。吐き気はないかい?」

 病室には不似合いなほど大きなハンスの声。それにシュルツ夫人の声が続く。すぐに看護婦――これはハンスの母だった――がやってきたのを見て、ようやく自分が運ばれたのが勤務先の病院であったことに気づいた。

「悪かったよ。俺が夜中の仕事なんかさせてたから、疲れが溜まって具合悪くしたんじゃないか」

「いや、そういうんじゃない」

 ハンスは珍しく殊勝で、心底から責任を感じているようだった。しかしレオが断りさえすればハンスは決して仕事の無理強いなどしなかったに違いない。そもそもここのところハンスの仕事は休んでいたのだ。だが張本人のレオが否定しているにも関わらず、しかしシュルツ夫人は恨みがましい様子でハンスに小言をこぼした。

「まったく、この人はうちの息子みたいなもんなんだから、こき使うのはやめておくれ」

「おばさん、人聞き悪いこと言うなよ」

 この二人は面識がなかったはずだが、レオを見守るうちに意気投合したのだろうか、よく喋り賑やかだ。

 だが、レオは他の誰よりも「いるはず」の人物がここにいないことに気づいてしまう。確認するように周囲を見回すと、ハンスと老婦人は気まずそうに顔を見合わせた。

「レオ、落ち着いて聞いてくれ」

 ハンスが妙に真剣な顔で、レオの両肩に手を伸ばしてくる。

「ニコがいなくなった」

 その言葉に、不思議と驚きはなかった。

 

 数日間の入院の後、脳に異常がないことがわかりレオは退院を許された。あの地下室に戻ったのは他に行くあてがないからだ。例えそこにもはやニコの姿がないのだとしても、戻る場所は他にない。

 病院でうつらうつらしながらレオがニコと話をした翌朝以降、誰もニコの姿を見ていない。

 シュルツ夫人が朝起きると、玄関扉の隙間から封筒が差し込まれていて、その中に「兄をよろしく」というメモと三ヶ月分の家賃が入っていたのだという。ちょっと出かけただけかと思ったが、それにしても三ヶ月もの家賃の前払いは奇妙だ。嫌な予感がして悪いとは思いつつ半地下の部屋に入ってみるとニコの荷物だけが忽然と消えていた。老婦人は仰天し、あわてて病院に駆けつけたところでハンスに出会ったというのがことの顛末だ。

 ニコがいなくなったことを聞かされたにも関わらず落ち着いているレオの姿はハンスと老婦人を驚かせ、二人は昏倒の後遺症を疑った。検査の結果に異常はないのにも関わらず、何度も何度も「でも、様子がおかしいんです」と医師を問い詰めては困らせていた。

 誰もいない部屋に戻るのは奇妙な気分だ。ただ、レオは夜中にニコと話をしたときに、なんとなくこうなることに気づいていたような気がする。理由も根拠もないが、それは直感に近い何かだった。

 寝具にまだニコの匂いが残っていないかと、自分のものではない方の寝台に寝転がり顔を埋めてみるが、すでに痕跡は失われている。きれいに整えられた寝具はいつものことで、ほんの少しばかりのニコの荷物がなくなったところで、部屋の見た目に大きな変化はない。

 家具の少ない部屋ではあるが、ニコは普段から身の回りをきれいに整頓して持ち物はウィーンに来るときに抱えてきた小さなトランクの中にしまっていた。今になって思えば、まるでいつでも姿を消せるよう準備していたかのように。

 病院から持ち帰った荷物を片付けようと、部屋に唯一あるタンスの引き出しを開いた。ニコが「僕はいいから兄さん使って」というので、言葉に甘えて下着や靴下をしまうのに使っていた。

 そこに、見慣れない封筒が二つ。

 ひとつには金が入っていた。レオの生活を心配して有り金を全部置いていったのだろう。老婦人のところに置いていった額とあわせるとそれなりの金額で、ニコは夜の街の秘密の仕事で稼いだ金を大事に貯めていたのだと知った。そして、おそらくそのほぼ全てをここに置いていったのだと。

もうひとつの封筒を開くかどうかはずいぶん悩んだ。しかし、ようやく心を決めて震える指で中の紙を取り出す。

 ――ごめんなさい。

 たった一言、そう書かれていた。