ポーン、と何度聞いても間抜けに響く効果音。続けて機内アナウンスがはじまる。羽多野貴明は読みかけの本から目をあげるとちらりと腕時計に目をやった。
「皆様、当機はこれより約二十分後にロンドン・ヒースロー空港に着陸いたします。最新の情報によりますと天候は晴れ、気温は八度となっております……」
愛用のハミルトン、ジャズマスター・オートクロノの針はちょうど午後三時を指している。東京・羽田発ロンドン・ヒースロー着、ブリティッシュエアウェイズBA4603便は、機材準備の関係で一時間近く予定を遅れて離陸したものの上空でスピードをあげたのか、着陸予定時刻はほぼ時刻表どおりだ。
なんだかんだと出国前は慌ただしかった。年明け一番に取りかかったのは就労ビザ申請。驚いたことに英国のビザ手続きは外注されており、オンライン申請の後は大使館や領事館ではなく新橋にあるビザ申請サービスセンターに出向く。それどころか手続きの優先だとか、待ち時間なしだとか、いわゆるプレミアムサービスを有料で提供している抜け目なさには驚きを通り越して感心した。いや、もしかしたら他国も最近は同様なのかもしれないが。
もちろんやることはビザ取得だけではない。引っ越しの準備、マンションの退去手続き、役所でのあれこれ。思えば大学進学のために渡米するときは身ひとつで、不要なものすべてを実家に置いていった。同様に離婚して日本に戻ってくるときも、リラと暮らしていたアパートメントに家財一式を残してきた。どちらのときも、もう二度と戻るつもりはなかった。
今回はいくらか事情が違う。羽多野がわざわざ仕事を探してまでロンドンに向かうのは、野心のためでもなければ傷心のためでもなく、ただ一緒にいたいと願う相手とともに過ごすためだった。
恋人(と口に出せば猛然と否定されるので、この呼び方は内心限定である)である谷口栄は、日本の中央官庁から在英国日本大使館に派遣されている官僚で、彼の任期は三年。つまり栄との関係が破綻しない限りは、羽多野の英国生活も期間限定となる見込みなのだ。
戻ってくることを想定しての海外転居というのは未経験だ。通電しなければすぐに壊れてしまう家電は処分するとして、家具は、本は、その他の雑多な家財は。幸いマンションは賃貸で車も所有していなかったが、それでも引越し準備には相応の苦労をした。
「この際まとめて処分すればいいんですよ。どうせ惜しむような家具じゃなかったでしょう。部屋自体ゴミの山みたいだったじゃないですか」
トランクルームを借りるか悩んでいると告げると、電話口の栄は冷淡な口ぶりでそう言った。汚部屋に通されこともあろうかそこでセックス、という先月の出来事を根に持っているのは間違いない。それに栄は人を見れば値踏みするのが半ば習慣化している悪趣味な人間だ。
そんなこと百も承知で、しかしマンションに滞在している間もそしらぬ顔で家財のひとつひとつを検分されていたのかと思うと羽多野は面白くはない。とはいえ、特にこだわりもなく必要に迫られて増やしていった家具家財には統一性のかけらもなく、しかもソファやベッドといった大物はほぼ購入十年が経とうとしていた。
表現こそ乱暴であるものの栄の指摘は正論だと認め、羽多野は潔くほとんどの荷物を処分した。もちろん内心では、これだけのものを処分させたからには次に日本で暮らすときにはそれなりの責任を取らせてやろうという決意を新たにして。
そんなこんなで直前まで準備に追われつつ、なんとか片付けるべきものを片付けて羽田空港に駆けつけたのは十二時間ほど前のことだ。
まめに貯めているわけではないが、敢えていうなら羽多野はスターアライアンス派。望ましいのは全日空だったが、圧倒的な値段差を理由にフライトのリクエストは却下され、二月から勤務する予定の職場から送られて来たのは〈彼ら〉にとってのフラッグシップキャリアであるBAのオンラインチケットだった。どこもかしこも不景気なのか、最近は欧米のシンクタンクも経費にはうるさくなっているらしい。
幸い社内規定で五時間を超えるフライトは社員の健康を理由にビジネスクラス利用が認められているとのことで、ビジネスクラスの座席が準備されていたのは朗報だった。
「JALとのコードシェアで、機材も新しいみたいだ」
「へえ……それは良かったですね」
栄が不機嫌そうだったのはきっと嫉妬のためだろう。旅行規程上は健康を配慮してのアップグレードが認められているにもかかわらず、今では多くの日本の官公庁では、たとえ中南米行きの長距離フライトであろうとビジネスクラスが使えるのは課長級以上であるという話は羽多野も聞いたことがあった。
羽多野はビジネスクラスごときで騒ぐような子どもではない。リラと離婚して帰国するときは、憂さ晴らし――というよりはむしろ当て付けのように散財したくてビジネスのチケットを取った。議員秘書時代も代議士の随行での海外視察に出かける場合はビジネス利用だったが、まああれはパックツアーの添乗員が羨ましく見えるくらいの奴隷待遇だったので、ビジネスに乗せてもらうくらいでは到底割にはあわなかった。
振り返ればビジネスクラスというものに、ほとほと良い印象のない羽多野だが今回は事情が違っている。預け入れた大型スーツケースはふたつ。議員の荷物を持たされているわけでも、海外の視察先の土産に大量の民芸品を詰め込んでいるわけでもない。ひとつには衣類など身の回りの品、もうひとつには栄が喜びそうな日本の酒や食品が詰まっている。
クリスマスから年末にかけて自堕落な生活に付き合わせてしまったせいで、年明けにロンドンに戻るときの栄は運動不足だとか顔が丸くなっただとか恨みがましく呟いていた。彼の性格からすればきっと、あれからきっちり節制も運動もして体を戻しているに決まっている。
今日は栄の部屋に着いたら荷物を片付けてから外食もしくはデリバリーで夕食をとり、持参した珍しい日本酒で一杯、というのが羽多野のプランだった。ついでに、初回の無理を根に持っているのか、それとも単に恥ずかしいのか二週間近い滞在の間、結局許してもらえなかった「二度目」も、という野心も腹の中にあるのは、もちろん言うまでもない。
不器用で意地っ張りで口の悪い栄だが、なんせ突然目の前から姿を消した羽多野を心配して、わざわざロンドンから東京まで飛んできたほどだ。再び一緒に暮らすことができる今日を、きっと彼も自分と同じように心待ちにしていたに決まっている。うきうきと窓の外、近づいてくる滑走路を見下ろした。
――が、現実は思うほど簡単ではない。
機内に預け入れていた荷物を受け取り、出口からロビーに出たところで左右を見回すが、そこに栄の姿はなかった。周囲は抱き合う家族や恋人たち、出張者の出迎えか送迎業者なのかはわからないが、名前の書いたボードを掲げた運転手などでいっぱいなので見逃したかと思って何度も見渡してみたが、栄はどこにもいなかった。
もしかして交通渋滞にでもはまっているのだろうか。電話をかけると繋がらない。不安になって何度もリダイヤルを繰り返すと、三度目でようやく栄は電話に出た。
「もしもし、谷口ですけど」
事務的な口調。家にいるのではなさそうだ。
「俺だけど、ヒースローに着いたよ。谷口くんは今どこ?」
「どこって、職場ですけど」
なんと栄は、大使館で普段通り仕事をしているのだという。執務室でこの電話を受けているならば電話に出た瞬間の他人行儀な冷たい口ぶりも理解できる。しかし問題はそこではない。
「……迎えにくるって言っただろう?」
苛立ちの混じる声で羽多野が詰め寄ると、栄は周囲を気にするかのような小さな声で、しかしあっさりと否定した。
「言ってません。念のため到着便の確認をしただけです。第一俺が行ったからってどうなるんですか? 車で迎えに行けるわけでもないのに」
羽多野はここ何度かの電話での、栄と自分のやりとりを思い出そうと試みたが、引っ越し準備で多忙な中のやりとりだったのではっきりと記憶に残ってはいない。ただ、完全な無からおめでたい妄想を作り上げるほどめでたい人間ではないつもりなので、きっと栄も何か思わせぶりなことを言ったはずだ。
「車で行けるわけでもないって……免許持ってなかったっけ?」
「持ってますけど、乗りません」
羽多野としてはどうしても車で来て欲しかったわけではない。運転をしたくないならば、長距離バスでも地下鉄でもいい。あれだけ劇的な経緯があってようやく正式に同居することになった相手の到着に対して、何らかの歓迎があってしかるべきだと思っただけだ。しかし栄の木で鼻をくくったような態度のせいで、つい目先の問題にむきになってしまう。
「買えとまでは言わないけど、レンタカーでもなんでもあるだろう。同じ左側通行なんだから難しい話じゃない」
「そういう問題じゃないんです。あなたこそ、そんなに車で移動したいなら自分でレンタカーを借りればいいじゃないですか。俺よりよっぽど運転には慣れてそうですけど」
そういえば、完全なペーパードライバーだと聞いたことはあったかもしれない。栄のようなタイプは小洒落た外車か、いかにも意識の高そうなエコカーを乗り回して悦に入るイメージがあったので意外だったが、返ってきたのは「俺、リスクは取りたくないんです」という別の意味で栄らしい返事だった。
要するに栄は、高級官僚たる自分がうっかり車を運転してしまったがばかりに、うっかり事故にでも巻き込まれてしまうことをおそれているのだ。確かに行政官としては立派なリスクマネージメントだが、今はそういう話をしたいわけではない。
そして、もちろん到着早々口論したいわけでもなかったのだ――が。
「……わかったよ、空港での熱烈な歓迎はあきらめる」
大人の寛容さで栄の気まぐれを許そうとした羽多野の耳に飛び込んできたのは信じがたい言葉だった。
「そういえば、家はちゃんと探してくださいね。うちに住むってことにされると困るんで」